匠雅音の家族についてのブックレビュー   毒になる親−一生苦しむ子供|スーザン・フォワード

毒になる親
一生苦しむ子供
お奨度:☆☆

著者:スーザン・フォワード  講談社α文庫 2001(1999)年 ¥780−

著者の略歴−医療機関のコンサルタント、グループ・セラピスト、インストラクターをつとめながら、ラジオ番組のホストとしても活躍。講演活動にも精力的である。著書に「ブラックメール−他人に心をあやつられない方法」(NHK出版協会)、「男の嘘」(TBSフリタニカ)などがある。
 親の行動が、子供に影響を与えるというのは、ジュディス・ハーマン「心的外傷と回復」や、 アリス・ミラー「闇からの目覚め」などで語られてきた。
そして、親が攻撃されもした。
本書も前掲書と同じ流れにあるのだろうが、本書のスタンスは少し違うように感じる。
本書は親を責めるのではなく、子供の自立に力点が置かれている。
TAKUMI アマゾンで購入
毒になる親 一生苦しむ子供

 訳者が<あとがき>で次のように言っている。

 最近日本では、子供がおかしくなってきていると言われている。だが子供は生まれてくるときには無垢のまま生まれてくるのであり、それが育っていく過程でおかしくなるというのは、原因が大人にあるのは明らかであり、それを<社会>のせいにするのはごまかしである。社会というのは「家庭」という最小単位が無数に集まって成り立っている。もし子供がおかしくなってくるのなら、その責任のほとんどを負わなくてはならないのは家庭であり、つまりは親なのである。経済成長(といえば聞こえはいいが、ひらたくいえば金儲け)に国をあげて狂奔してきた結果が、あたたかい愛情を与えられずに育てられた子供にあらわれているのだ。P312

 まったく本書の言うとおりだ。
なぜ、大人たちは自分を見なおそうとしないのだろうか。
問題を起こすまで、いや問題を起こしても、親の愛情表現が問題にされることはない。
育て方が悪かったという言葉は聞くが、親が子供に愛情を注いだかは、問われることはない。
もちろん、どんな親でも、子供に愛情をもっていると言うであろう。
しかし、子供たちは親からの愛情を感じたことはないのだ。
 
 どんな親も子供を愛している、と大人たちは心から信じている。
どんな親でも、口では子供を愛しているという。
しかし、どう愛しているのか、そう問われると、口ごもってしまうだろう。
多くの親は、愛情を形に表すことは少ない。
食わせて、養ってさえいれば、愛情を注いでいると勘違いしている。
学校に通わせていれば、もうそれで充分だと思っている。

 子供が親の所有物である時代が、我が国では長く続きすぎた。
その人の所有物には、誰も口を挟めない。
他家の所有物である子供をめぐっては、親に誰も意見しないのだ。
そして、自分も親になるから、よその親を冷静に見ることができない。

 おそらくボクの父親も、子供を愛していただろう。
しかし、ボクは父親の愛情を感じたことがなかった。
自分が大切にされている、と感じたことは一度もなかった。
父親は気むずかしく、家のなかでは笑ったことがなかった。
それでいて、外の人にはきわめて愛想が良かった。
家の内外での感情表現がまるで違った。

広告
 外での愛想の良さに反比例して、家族に対しては冷酷だった。
毎日、暴力をふるうわけではなかったが、母親に対して殴ったことがあった。
土足で畳の上に上がった父親は、逃げる母親を追いかけて殴った。
一度でも家族を殴れば、家族はいつ殴られるかと、心の中でおびえる。
ナイフは見せるだけで良いのだ。
いや、むしろ抜かないほうが、脅すには威力がある。

 難しい人だった。
父親の気分を察して、家中が息を殺していた。
だから冷たい家だった。
誰に食わせてもらっているのだ、と言うのが父親の口癖だった。
一刻も早く父の影響下から抜け出したかった。
20歳過ぎに家をでて、その後40年にわたり、ほとんど没交渉できた。
没交渉にしたので、辛うじて自我を保つことができた。
父親との関係では、本当に苦労した。

 40年もたった2年前、父親が謝罪してきた。
しかし、その1ヶ月後には、あれはなしだと言ってきた。
再び、没交渉にもどった。
親子の問題で辛いのは、誰も子供の味方になってはくれないことだ。
味方どころか、誰も理解できない。
親が子供にどんな対応をしているか、まったく想像もつかないのだ。
そして、親の言動が、子供にどんな影響を与えているか、誰も考えてはくれない。
そうした事情は、原田純の「ねじれた家 帰りたくない家」に詳しい。

 子供の時に体罰を加えられていたにせよ、いつも気持ちを踏みにじられ、干渉され、コントロールされてばかりいたにせよ、粗末に扱われていつもひとりぽっちにされていたにせよ、性的な行為をされていたにせよ、残酷な言葉で傷つけられていたにせよ、過保護にされていたにせよ、後ろめたい気持ちにさせられてばかりいたにせよ、いずれもほとんどの場合、その子供は成長してから驚くほど似たような症状を示す。どういう症状かといえば、「一人の人間として存在していることへの自信が傷つけられており、自己破壊的な傾向を示す」ということである。そして、彼らはほとんど全員といっていいくらい、いずれも自分に価値を見いだすことが困難で、人から本当に愛される自信がなく、そして何をしても自分は不十分であるように感じているのである。P12

 多くの大人たちは、暴行とか、性的な虐待とか、極端な遺棄とかでないかぎり、親の対応は子供の心に何の影響もないだろうと思っている。
しかし、愛情を感じずに育った子供は、自分に自信がもてず、いつも不充分であるように感じている。
ボクもそうだ。
1級建築士であっても不充分だし、土地家屋調査士でも不充分だと感じている。

 小さな子供にとって、親は生存のすべてである。
親はすべてを与えてくれる全能の存在である。
だから、小さなうちは親の行動が間違っているとは、どんなことがあっても思えない。
親からどんな対応をされても、それが正しいと感じざるを得ない。
ただ不満が内向するだけである。
しかも不満をもっても、それは自分が悪いのだと思ってしまうのだ。
そして、親の元から逃げ出すことしか思いつかない。

 「自分が生まれてきてこの世に存在しているのは価値のあることだ」「自分は意味がある存在だ」という感覚を子供が持つためには、親から「そうだとも、その通りだよ」というメッセージを与えられ、それによってそのことを確認できなければならない。だが彼女の両親のように、自分のことで頭がいっぱいでは、子供が心の支えに何を必要としているのかに気づくこともできない。しかも彼女の母親は、子供が示す感情表現に対して何も反応せず、心をかよわせようともしなかった。そういう状態のもとで、彼女の受け取ったメッセージが何であったかは明白である。それは、「お前は私たちにとって重要な存在ではない」というものだったのである。こうして彼女は、しだいに自分が自分をどう思うかではなく、親が自分をどう思うかによって自分を規定するようになっていった。つまり、自分の行動が親の機嫌をよくしたら自分は「いい子」であり、親の機嫌が悪くなったら「悪い子」だ、ということになったのである。P60

 親がお金持ちだったり、高い地位にいたりすると、多くの人が親に頭を下げる。
それを見ていれば、子供は親が偉いと思う。
すると自分が間違っていると思わざるを得ないし、親に自分をあわせようとする。
しかし、こうして育った子供は、安定した自我を持つことができない。
そして、世の中は自分を受け入れてくれる、という意識を持つことができない。
 
 親の元を逃げだすだけの力のない子供は、親に刃向かって行かざるを得ない。
家族の中で逃げ道をふさがれてしまうと、親を殺すところまで行ってしまう。
偉い親だったり、お金持ちだったりしながら、子供を叱咤激励すると、子供は絶望である。

 子供が育つためには、大きなお金はいらない。
偉い親である必要もない。
日々を暮らすに足りるお金と、子供がかけがえのない存在だと、子供に伝えるだけで充分である。
いかに子供を大切に思っているか、親は必死で子供に伝えるべきだ。
言葉や行動で示されない愛情は、伝わらないのだ。

 キリストの生きていた時代、妻は夫の所有物だった。
妻が夫の所有物だった時代、多くの夫たちは妻を大切にしたであろう。
所有物であれば、今以上になおさら大切にしただろう。
女中さんを雇って妻の面倒をみさせ、美しい衣服を着せてやったことだろう。
セックスだってたっぷりと、堪能させてやっただろう。

 しかし、所有物として大切にする仕方と、平等な人格として大切にするのは、まったく次元の違う話だ。
所有物にだって、美しい衣服を着付けることはできる。
妻が夫の所有物であっても、妊娠させることはできる。
当時の男たちが、他家の女性や人妻に手をださなかったのは、他人の持ち物を傷つけたり、妊娠させたりしてはいから、手をださなかったのだ。

 現代では女性も、男性と同様の人格だと考えられている。
女性はどんなに大切されても、夫以外の男性と結びつく自由を持っている。
所有物として大切にされれば、むしろ多くの現代女性は息苦しくて、夫の元を離れていくだろう。

 現代でも、子供は親に属する生き物で、半人前だと見られている。
親は子供を大切にしている、と言うかも知れない。
子供を所有するので大切にするのと、子供を人格として大切にするのは、まったく違うことなのだ。

 親による暴力とか、虐待とか、特殊な例だけが、取り上げられている。
しかし、子供の尊厳を傷つけるような対応は、子供の心に癒しがたい傷跡を残す。
親子関係というのは、親の言動に物言いをすると、言ったことだけで子供には罪悪感が残るものなのだ。
今、ボクがこんな文章を書くこと自体、家族の内部をさらけ出すようで、罪悪感に襲われる。
そして、親に批判的なことを言っている自分に、自責の念をもっている。
40年たっても、親を批判するのは、精神的な枷がかかっているのだ。

 本サイトはすでに550冊をこえる書評を掲載している。
しかし、自分の父親について書いたのは、「ひきこもりと家族トラウマ」以降、はじめてである。
自分の親のことを書くのは、それだけ厳しいのだ。
本書が理解されるのは、まだまだ時間がかかるように思う。  (2010.3.02) 
広告
 感想・ご意見・反論など、掲示板にどうぞ
参考:
H・J・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
リチャード・ランガズ、デイル・ピーターソン「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998
M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか 生態人類学から見た文化の起源」ハヤカワ文庫、1997
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か その言説と現実」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、
I・ウォーラーステイン「新しい学 21世紀の脱=社会科学」藤原書店、2001
レマルク「西部戦線異常なし」新潮文庫、1955
田川建三「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」三一書房、1980
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997

「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる