編著者の略歴− 1928年生まれ。歴史学教授資格、国家博士号取得者。パリ第七大学(ジュスィウ校)の教授で、フランス現代史を講じている。専攻ははじめ、十九世紀の労働者、社会運動や民衆文化だった(『ストライキにおける労働者−1871年から1890年まで』Paris、Mouton,1974)が、並行して犯罪と刑務所制度の研究も行なっており、この分野でも三冊の著書がある。最近20年ほどは、とくに女性史の発展にとり組み、ジョルジュ・デュビーとともに『西欣女性史』全五巻全体の監修にあたっている。 本書は、1983年にフランスで行われたシンポジウムの結果をまとめたものである。 そのため1人の筆者によるものではなく、13人の書いた13本の論文が並んでいる。 女性史は可能かという主題で論議されたので、何らかの形で女性史に関係している。 冒頭の日本語版への序文では、次のように書かれている。 女性は、ほんとうに歴史の対象になったのでしょうか。おそらく否です。少なくとも、「男性」ほどには、まだ歴史の対象ではないのです(男性は、第一、男性としての歴史をもっているはずです)。もっというと、「男性」は、自分たちがひとつの全体を体現しており、しかもそれは人類全体と合致しているのだと、主張しています。これに対して、「女性」は、あい変わらず部分を意味しているにすぎないのです。「少数の存在」というこの規定こそが、まさに問題であり、女性を部分としてあつかうやり方を正当化しているのです。P4
そのため、歴史はつねに現在から書かれるのだ。 今現在に主流の価値観で、過去を見た場合、どう見え、どう秩序付けられるか、それが歴史である。 歴史とは過去を扱っていながら、きわめて現在的な意識に支えられている。 女性が社会的に台頭し、男性と拮抗するようになった。 すると、女性という性別の生き物には、歴史がないことに気がついた。 女性である自分たちは生きていながら、女性がつくった価値観がなかったのだ。 そこで自分たちを正当化したいために、過去へと遡って、女性の行動を捜してきた。 現在の自分の存在を、時間の流れの中に位置づけるために、女性の歴史は可能かと問うたのである。 本書を読んだ限りでは、母親の歴史とか、妻の歴史は書けても、歴史全体を女性史として捉えることは不可能だと思える。 ミシェル・ペローは<序文>で、次のように言っている。 女性史という新しい分野をつくることが、問題なのではない。もしそんな女性史なら、それは波風の立たぬ譲歩にすぎず、女性たちはそこで、あらゆる矛盾を隠れみのにして、気ままに羽をひろげてみるだけになろう。そうではなくて、男女両性の関わり方の問題を中心軸に据え、歴史を見る眼差しの方向を変えることが、もっとずっと重要なのである。要するに、これがなされなければ、女性史はありえないのである。P31 この問題意識は、フランス特有のものかも知れない。 アメリカのように女性学を独立させても、その卒業証書は社会では役に立たないだろうと言っている。 そのとおりである。 女性独自の経済活動や政治があるわけではなく、人間の経済活動があり、政治があるに過ぎない。 今まで、その人間は男性だけを意味し、女性は人間として扱われていなかった。
女性が自分たちも人間だと主張したのは、もっとも正確に言えば1968年以降である。 つまり女性の歴史は、たった43年しかないのだ。 しかし、歴史が短いから価値がないかというと、決してそんなことはない。 価値は価値として計られ、時間の長さとは関係ない。 富を得ると名誉が欲しくなるように、女性たちも歴史が欲しくなったのだ。 とすると、現代という社会で、なぜ女性が台頭できたのか、それを問わないことには、女性の歴史は始まらないだろう。 女性の台頭した原因は、言うまでもなく肉体的な力の無価値化である。 これがあったから、女性も男性と同じ発言権を得たのだ。 人類の歴史はじまって以来、肉体的な力こそ社会を維持してきた源だった。 ほとんどが農業に従事した社会だったから、屈強な腕力が不可欠だった。 それに戦争が絶えなかったし、戦争も肉弾戦だった。 だから、肉体的な腕力に秀でた男性が、優位な立場に置かれたのである。 そして、女性は男性間での交換の対象でしかなかった。 それによって、近親相姦を防ぎ、文化・文明の断絶を免れたのだ。 肉体的な腕力の価値が下がり、頭脳の働きのほうが上位になる。 そんな社会は、工業社会も終盤になり、情報社会になって初めて実現したのだ。 19世紀の男性は、戦う男というモデルに一致するよう義務づけられている−ここに、今日すがたを消してしまってはいるが、性別によるイメージや行動の分割の基本的な側面のひとつがある。しかもそれは、とくにいっておきたいのだが、民衆のあいだでも同じことだった。したがって、男子教育も、しばしば 「体罰」をともなう厳格なものとなった。仲間うちの殴りあいのものすごさ、戦場でも信望をうる腕っぷしの強さ、パリの建設労働者にたえずつきまとう恐ろしい暴力、これらは、それぞれに、力の支配を示すしるしなのである。第二帝政期まで、ブルジョワ家庭では、娘は家に残しておきたがったが、息子のほうは、寒く、汚れて、悪臭をはなつ寄宿学校に入れられ、体を鍛えるためにスパルタ式の訓練を強制された。その厳しさが、男らしい気質をつくりあげるうえで、大きく貢献すると思われたからである。P238 19世紀までといえば、つい最近の話である。 なぜ、腕っぷしの強さに価値があったのか。なぜ、それを社会は男の子に求めたのか。 社会が求めたのであって、男性だけが求めたのではない。 女性も男性に腕っぷしの強さを求めたのだ。 本書は問題の所在をわかってはいるが、解法は提示できていない。 男女の歴史を書くには、今後、長い時間が必要だろう。 むしろ、今後の社会が、どう発展するかにかかっている。 (2011.1.18)
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