著者の略歴−ボストン大学心理学教授。個人診療所をもち治療にも従事している。「良い母親」という概念に関する論文を多数、学術誌に発表している。 母親のあり方を、旧石器時代から現代まで通観したものである。 現代の母親像を歴史的に捕らえ直そうとしている。 本書の前半部分は、すでに大昔の古い歴史になっているので、資料的にも立証が難しい。 そのため、イデオロギーの争いになりがちである。 本書も、その例にもれてはない。
前産業期になると、母親のあり方もよく判ってくる。 当時の母親たちは、生きることに忙しく、田や畑で働くかたわらに、子育てをおこなった。 もちろん子供は可愛かっただろうが、今よりずっとたくさんの子供がいたし、何より生きることが忙しかった。 そのため、1人1人の子供に、多くの手間はかけられなかった。 学校がなかった時代には、子供は健康に育ちさえすれば、それ以上の望みはなかった。 しかし、現代ではまったく事情が違う。 子供に残すべきものが教育になったので、とにかく学校へ送り込まなければならない。 そして、学校やその背後から、母親への有形無形メッセージがたくさんやってくる。 それは、「良い母親」であれというものだ。 現代の母親たちは、良い母親になりたい願望が強い。 では、良い母親とは何かと言えば、愛情にあふれ、子供第一に行動する女性のことだ。 広告のなかに登場する母親と言ったらいいだろうか。 現代の良い母親の基準は、きわめて威嚇的、自己否定的でわかりにくく、たがいに矛盾しているため、私たちはなかなか合格点をもらえない。現代の神話は、あまりに多くの義務や期待を母親に押しつけるので、まともに受けとっていては母親の精神がもたない。 今日、母性愛は道徳の一部となっている。子供の幸福は全面的に子育ての質にかかっていると考えられている。母親は、実際にその子供を産んだ生物的母親である必要はないし、女性でなくてもよいが、少なくともいつもその子のためにいてくれる一人の愛情深い大人が必要であり、その人から引き離す行為は何であれ子供を心理的に傷つけると考えられている。P12 妄想化した母親像が、生身の母親を追い込んでいく。 かつての大らかな母親は、望むべくもない。 本書は、産みの女性が母親でなくとも良いと言っているが、我が国では産みの母親賛美が強い。 これも時代性・地域性だろう。 しかし、現代だけが、母親受難の時代ではない。
と、筆者は「ファロスの王国」を書いたエヴァ・C・クールズと同じようなことを言う。 我が国の武士たちだって、実際に子供を育てたのは、乳母たちであり産みの母親ではなかった。 近代になって核家族化が進行してくると、セックスが家庭に閉じこめられ、それにともなって子育てが産みの母親の役割になっていく。 同時に、先進国では手軽で安全な避妊が普及し、子供が減少してくる。 そこで育児や親子関係にも、科学の目が登場してきた。 母乳以外にも、人工栄養が取り入れられ、温度や数量の計量が必須となった。 温度の基準は人肌ではなく、36度が適切であり、量の計量にはウズラの卵の大きさから、スプーン1杯というのが正しいくなった。 母親は科学を体得した職業となった。 しかし、また母親へのルールが変わった。 第二次世界大戦前の10年間の、厳格で科学的な方法は突然葬り去られ、抱きしめることが奨励され、24時間「自由放任」がとってかわった。 この変化はあまりに急激に起こつたために、母親は大混乱に陥った。1940年代終わりから50年代はじめ、多くの女性は、子 育ての最中にそのやりかたを変えなければならなかった。P276 20世紀も終わり頃には、父親の子育てが推奨され、ゲイのカップルたちにも子育てが許され始めた。 しかし、いまだに子育ての教科書は、性別役割分にもとずいた核家族を前提にしている。 いま母親に求められている仕事は、子育てを専業にしていなければ不可能なほど多い。 子育てに24時間を割く時間的な余裕はないにもかかわらず、多くの母親は完璧をめざしている。 子供が脱線すると、自分の育て方が悪かったからではないか、と心底悩んでしまう。 アメリカでは、いまや父親だけが稼ぎ手で、母親が子育ての専業であるのは、7パーセントだという。 にもかかわらず、母親像は専業主婦の時代から変わっていない。 社会の主流を占める男性たちが、専業主婦の母親に育てられたから、非常識がまかり通っているのだ。 何世紀にもわたって、育児にはさまざまなやりかたがあったにもかかわらず、子供の精神病のあらわれ かたは、かなり一定しているようだ。子供は重要視されようが、ワトソンの行動主義の対象となっていようが、厳しくしつけられよ うが甘やかされようが、なんとか成長していっている。あきらかに普通の子育てをしていれば、心理的問題を生じることはないのだ。 こうしたことすべてが、現代の理想的母親のイメージに深刻な疑問を投げかける。結局のところ、おそらく母親は全面的に 共感的である必要はない。おそらく子供を傷つけることなく野心的にもなれるだろう。おそらく母親には子供をかたちづくる無 限の力などないのだ。良い母親というのは、歴史が思い出させてくれるように、文化的発明である−人間がつくったものであって理にかなった自然の力などではないのだ。P336 母親には子供をかたちづくる無限の力などないという、 当たり前のことが確認できれば、子育てはもっと自由になる。 そして、「良い母親」幻想に取りつかれずにすむ。 当然の結論だが、悩んでいる母親たちには、こうした結論は届かないのだろう。 (2009.11.25)
参考: M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 真壁智治&チームカワイイ「カワイイパラダイムデザイン研究」平凡社、2009 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001 イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994 末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 須藤健一「母系社会の構造:サンゴ礁の島々の民族誌」紀伊国屋書店、1989 エリザベート・パダンテール「母性という神話」筑摩書房、1991 斉藤環「母は娘の人生を支配する」日本放送出版協会、2008 ナンシー・チョドロウ「母親業の再生産」新曜社、1981 石原里紗「ふざけるな専業主婦」新潮文庫、2001 石川結貴「モンスター マザー」光文社、2007 イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994 江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967 梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988 J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957 ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965 クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966 松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984 熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000 ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004 楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005 山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006 小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001 エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997 シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000 シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001 三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004 鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004 片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003 ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006 ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001 山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972 水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979 細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980 サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982 赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005 マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994 ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992 モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992 R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987 荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001 ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952 スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994 井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995 ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994 杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994 ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009 佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994 斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003 光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997 奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000 ミレイユ・ラジェ「出産の社会史 まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994 匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
|