著者の略歴−オランダ生まれ.1978年以降,ミネソタ大学古典学教授。ギリシア悲劇断片,メナンドロスの喜劇,イコノグラフィー,女性史などに関する論文多数.著書に,The Water Carriers in Hades:A Study of Catharsis through Toil in Classical Antiquity,1974.Plato and Greek Painting,1978 古代ギリシャがいかに男性支配的だったか。 しかも、男性性器の記念碑を街中に建て、男性だけが享楽的だったかを、壷絵をもとに詳細に展開したものである。 オランダ生まれの筆者は、フェミニズムの急先鋒で、古代ギリシャの男性支配を<ファロクラシー(男根主義)>といって告発していく。 ずいぶん前に読んだ本だが、本サイトには取り上げておくべきだろうと思う。
古代ギリシャといえば、都市国家だった。 スパルタは強権国家として、かならずしも評判は良くない。 それに対してアテネは、ヨーロッパ文明の発祥の地として、揺るぎない地位を占めている。 哲学も民主主義もアテネから始まったと言うし、議会政治も完備していたと評判がいい。 しかし、アテネには裏面がある。女性の影が見えないのだ。 ギリシャには奴隷がいたのは周知であろう。 奴隷のいる民主主義というのは、どうにも理解できないのだが、多くの学者たちはギリシャを賛美してやまない。 不思議なことに奴隷は無視して、話を進めているのだ。 また、プラトンの「饗宴」でも明らかなように、少年愛が跋扈していたのに、それにもふれることは少ない。 また、ギリシャでは奴隷と同じように、女性についても論じられることは少ない。 たくさんの壷絵が残されている。 しかも、壷絵の図柄が、勃起した男性器とか、セックスシーンだとか、きわめて強烈なのだ。 壷絵がたくさん残されているにもかかわらず、いままで男性研究者は壷絵を無視してきた。 筆者は壷絵を読み解きながら、男性支配を糾弾する。 アテナイの公の生活の至る所に勃起したファロスが存在したことは、3章で十分に説明するはずである。しかしながら、アテナイの女たちは市民としてのほとんどの機能から切り離され、ほとんど家庭に閉じこめられていた。彼女らにとって最もありふれたファロスのイメージといえば、自宅の中庭や戸口に必ず立っていたへルメス神の像であった。図8、9、10から分かるとおり、ヘルメス柱像は真っ直な石柱に髭の生えたへルメスの胸像が載ったもので、股の付け根にあたる所から、大なり小なり写実的な勃起した性器が突き出していた。(中略) このような像が、アテナイには私の領域といわず公の領域といわず、何百となく厳存していたのである。それはアテナイの女たちにとっては、自分たちの生活を支配するファロスの力を絶えず思い出させるものであったに違いない。T−P32 性に関する図柄を残している地域は、インドの壁面彫刻などもある。 インドに関しては、非西洋文明だから性が生命賛歌として、女性にも目配りされている。 しかし、ギリシャに関しては、西洋文明の現代的な読み込みをするために、女性の立場を無視してギリシャ文明を賛美してきた。 女性が劣位にあったことを言ってしまうと、現代の西洋文明への連続性を疑うことになってしまうからだろうか。 もともと空間として何千キロも離れ、時代的にも数百年も違うのに、古代ギリシャをフランスやイギリスの文化の発祥地というのは無理がある。 しかし、歴史的なオリジナルのない文化は、自己の優位を主張することができない。 だから、ギリシャを無理矢理ヨーロッパの故郷にしてしまった。 矛盾する点が、生まれるのは当然である。 現代のヨーロッパ女性は、きわめて鼻っ柱が強い。 女性の台頭は現代的な現象であり、古代では女性に人権がなかった。 人権は時代が下るに従って、多くの人へと広まってきた。 そう考えるべきだ。 ギリシャでは人口の20%程度が、市民として扱われていたのだろう。 そして、市民しか人権がなく、奴隷はもちろん女性も市民ではなかった。 筆者は冷静である。 バッハオーフェンの「母権論」を引用しつつ、女性支配の歴史を否定する。 バッハオーフェンの見解は、西欧世界の歴史に関する限りではもはやあまり受け入れられていない。とはいえ、女が男よりも強大な権力を振っていた地中海文化があれは、なんであれその痕跡を見出さねばならない。そのような事態は確かに肉体的に見てありそうにない。権力構造は理性と無縁な力に根ざしている。体形において劣る女たちは、生理と妊娠のせいで弱くなり、出産時の死という女性にまつわる歴史的呪いのおかげで多くのものが命を失うのが常であった。T−P72 エンゲルスなども人類の初期には、女性支配があったというが、いまや女性支配を肯定する人はいない。 つい最近まで我が国では、女性たちが古代の女性優位を主張していた。 願望が歴史を作る典型例だろう。 男性支配は、肉体的な屈強さが支えていたとは、本サイトの主張するところだ。 肉体的に優位ではなくても、いまや男女平等を語りうる。 いや情報社会に入った先進国でこそ、男女がはじめて平等になったのだ。
乱交といっても良いシーンは、まさに<饗宴>を表すのだろうし、ヘタイラという売春婦とのシーンも多い。 アテネでは、ふつうの女性は14〜5歳で結婚した。 まるでイスラム社会のように、室内で一生を過ごす。 それに対して、男性とつきあったのは、ヘタイラである。 ソクラテスは<饗宴>のなかで、ヘタイラであるディオティマの言葉を、しばしばとりあげている。 おそらくディオティマは、高給遊女だった花魁のような存在だったに違いない。 すべての売春婦がディオティマのようだったわけではないだろう。 筆者は次のように言う。 売春というものは贔屓目に見てもあさましい職業である。売春のおもむくところは不健康な労働時間であり、女たちを病気や望みもしない妊娠や男の暴力に晒し、感情を偽わる必要が非常に大きいものなのである。売春が女たちに開かれた唯一の自立した職業であるところでは、女たちは売春によって自分自身の運命を支配するという尊厳を得られるのであり、その理由からフェミニストたちの間では売春が一定の魅力を獲得している。しかしながら、売春にはおのずと優しさないし覚大さに通じる力があるとか、その結果としてどのような形であれ文化の向上に与って力がある、などとはとうてい言えない。(中略) 時には客が売春婦に愛着を感じるようになるにしても、制度的に女の側には選択の機会はあまり与えられていない。T−P215 本サイトは売買春を肯定するが、けっして推奨しているわけではない。 売春を職業とするには、生涯賃金が安すぎるのだ。 だから、この見方が公正なところだと思う。 女性に職業が開かれた今でこそ売春が、自己決定権のなかに含まれて来始めてきた。 しかし、女性の職業がない時代に、仕方なしに売春婦になったのであろう。 仕方なしになったとしても、売春婦には自己に収入があったから、気っ風の良い生き方ができたのだ。 少年愛に対する見方も、筆者は冷静である。ボクは筆者の見方に賛成する。 もしも、疎外感や敵意によって蝕まれた異性愛関係を、セックスが友情や知的刺激と渾然一体となるような高貴な関係に置き換えたいというのが主たる衝動であったのなら、理想的なパートナーシップは年齢、地位、教育程度の似通った二人の男同士のそれということになったであろう。ところが、ギリシア人の好んだ同性愛の結び付きは同輩の愛よりはむしろ少年愛であった。そして、性的能力と欲求の絶頂期にある成人男子と、思春期直前の若く、色情面で未発達の少年との間に結ばれる関係がその原型であった。標準的なギリシア語では、年上で能動的な当事者には「愛する男(念者)」、年下の受動的な男性には「愛される少年(稚児)」の呼称が与えられる。U−P51 こうした本が出版されていながら、多くの学者たちは無視している。 本国では1985年には上梓されているから、売春に対する見方でも、同性愛に対する見方でも、すでに周知されていたのだ。 にもかかわらず、自分たちに都合の悪い見方は、無視し続けてきた。 こんな姿勢では、女性運動やゲイの解放運動が、我が国で実を結ぶとは思えない。 とても残念である。 本書は、男性支配を弾劾するために、ギリシャを徹底的に批判している。 その筆法はやや偏っている。 しかし、読むべき本だろう。 (2009.8.26) 感想・ご意見・反論など、掲示板にどうぞ 参考: フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 高月靖「南極1号伝説」バジリコ、2008 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 佐々木忠「プラトニック・アニマル」幻冬社、1999 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノローグ」白水社、2002 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国」岩波書店、1989 能町みね子「オカマだけどOLやってます」文春文庫、2009 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006 礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987 プラトン「饗宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002 東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002 神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991
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