著者の略歴− 1944年,リエヴァン(フランス)生まれ。23歳で歴史学の教授資格を取得。1986年よりパリ第13大学(ノール)の歴史学教授。現在,同大学大学院博士課程研究科“生物と社会”科長。アナール学派の流れをくむ歴史学者で,犯罪や刑罰の歴史,魔法,魔術,魔女,悪魔などの非キリスト教的表象の歴史,暴力,礼儀作法,恋愛,快楽などの習俗とその文明化の歴史にかんして、多くの著書を発表してきた。邦訳書・『近代人の誕生』(石井洋二郎訳,筑摩書房),『悪魔の歴史12−20世紀』(平野隆文訳,大修館書店) フーコー以来、性の歴史にも、光が当たるようになった。 本書は、16世紀つまり近代以降の、性意識の変遷をイギリスとフランス、それに戦後のアメリカを対象にして、研究したものだ。 本書の主張は、「1960年代までの西洋近代の<進歩>の隠れた原動力は、性的な欲動を抑圧することによって、そのエネルギーを別の方向へ導いたところにある」ということだろうか。
抑圧と昇華は、フロイトの説くところだが、概ね同意しても良いのではないだろうか。 本サイトの考える、前近代と近代の関係とも一致するし、両時代の性的な行動にも一致する。 16世紀が、近代化を準備し始めた時期だとすれば、肉欲に対する強い抑圧が、16世紀に生じたというのは納得できる。 肉欲に対する抑圧から解放されるのは、1960年代だというのも、これまた納得である。 1968年にフランスで始まった5月革命は、自由への解放だったのであり、これが性の解放を呼んだという理解も、いまでは当然だろう。 16世紀から1960年代までの性を、豊富な資料をもとに分析していく。 キリスト教は最初から、生の本能という灼熱の溶岩を、排斥と禁止という硬い地殻の下に閉じ込めようとしてきたわけだが、道徳的な圧力が本当に強化されたのは16世紀なかばになってからのことである。それはカトリックでもプロテスタントでも同じで、その時期から宗教的な圧力は、世俗の権力が発布する新しい厳格な法に支えられるようになる。下品で猥褻なふるまいに対する個々人の自制に加えて、それを犯罪視する傾向がしだいに強くなってきたことによって、結婚という枠組みのなかでしか認められない、純粋に生殖だけを目的とするセクシユアリティのモデルが課されるようになる。夫婦の褥では自重が過ぎて肉の喜びが萎んでしまう。このモデル以外の行ないは、すべて公然と非難されることになる。P6 まさにそのとおりである。 これが我が国に入ってくるのは、もちろん明治維新以降である。 江戸時代まで我が国では、性的な抑圧は強くなかった。 それは農業が主な産業だったため、女性もきちんとした労働力であり、女性の性的な欲求を抑圧しなかった。 性への欲動は、生きる勇気や力を与えるものだから、女性の労働力を期待する以上、女性の性欲を否定するという発想は、生まれる余地がなかった。 農業時代の大家族の時代には、跡継ぎとして労働力として、子供が必要だったから、セックスが肯定された。 工業社会になると、男性には職場が用意されたが、女性にはまっとうな職場がなかった。 そのため、男性が女性を養う核家族が誕生した。核家族では子供は不要だった。 不要な子供を産んでしまうセックスが、否定されていくのは当然で、子産みのためのセックスが、わずかに許容されたにすぎない。 子産みのためのセックスとは、家庭内でおこなわれる夫婦間のセックスである。 稼ぎのある男性が、女性の上にのる体位を、正常位と呼ぶようになった。 そして、女性を弱者と定義し、弱者保護として、女性を家庭内に閉じこめていったもの、また当然の流れだった。 その源流を、筆者は16世紀に見るのだが、おそらく当たっているだろう。 豊かな社会の出現が、生殖ととしてのセックスと結婚を切りはなし、セックスが快楽の追求として求められるようになる。 あらゆる徴候が、生殖をともなわない性の前代未聞の出現を一致して表わしている。それでも三千年紀のはじめに、ホモ・サピエンスが自殺に向かいはじめたというわけではない。単に、生殖機能と性愛の快楽をはっきり区別するようになっただけである。この二つの領域は、たがいがたがいの基礎となっている。しかしいまやこの二つを切り離しても、多くの人にとってそれほど大きな問題は生じないのだ。豊富な食糧、非常に長い寿命、安逸な暮らし、われわれの先祖は知らなかったこれらの条件により、二つの領域のどちらにおいても要求は高まるばかりである。官能に対する欲求が増したからといって、子どもを欲しがらなくなるわけではない。むしろ逆である。(中略)小児愛は不埒な行為のなかでも最悪なもの、正真正銘の人道に対する罪となった。このことはベルギーのデユトルー事件に対する反応や、未成年者に対するあらゆる暴力の加害者に対して、とくに合衆国では、法制度が非常に厳罰化していることにも顕われている。 根本的に変化したのは、子孫をもうけ、愛するのに、もはや必ずしも結婚という制度を必要としなくなったように見える点である。P360 オルガスムというと好奇の目で見られ、まっとうな学問研究の対象とは、見られないかもしれない。 フランス人の筆者が、プリンストンの研究員としてアメリカで研究した。 その結果を発表すると、公の場でファックという言葉を聞いたと、アメリカ人たちが驚いたという。 ファックとかシットとか、アス・ホールなどといった言葉を、公の場で使うことは、禁欲的なアメリカでは厳しく窘められる。 にもかかわらず、研究対象が対象だけに、こうした卑語もバンバン飛び出したのだろう。 本書のような研究が、どんどん公にされることによって、男女関係も風通しが良くなっていくだろう。 (2007.02.14) 感想・ご意見などを掲示板にどうぞ 参考: 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992 石坂晴海「掟やぶりの結婚道 既婚者にも恋愛を!」講談社文庫、2002 梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001 山村不二夫「性技 実践講座」河出文庫、1999 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002 プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 高月靖「南極1号伝説」バジリコ、2008 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 佐々木忠「プラトニック・アニマル」幻冬社、1999 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 白倉敬彦「江戸の春画」洋泉社、2002 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 パット・カリフィア他「ポルノと検閲」青弓社、2002 匠雅音「性差を超えて」新泉社、1992
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