著者の略歴−1933年、香川県善通寺市生まれ。早稲田大学卒。中学時代から強迫神経症に悩まされ、自身の心の問題を解決しようとしたのがこの道に進んだきっかけ.やがで強迫症状はすべて自分を支配しようとした母親との葛藤から起きたものと悟り、神経症から解放される。52年、人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているにすぎないとする「史的唯幻論」を『ものぐさ精神分析』のなかで披瀝。一大センセーションを呼ぶ。以降、精神分析の手法を社会、集団に適用させる特異な文明批評家として人気を博す。著書に、「嫉妬の時代」「フロイドを読む」「母親幻想」「唯幻論物語」「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」など多数。 文春新書になった「性的唯幻論序説」に、大幅に書き加えて改訂版を書いたところ、文春文庫が拾ってくれたという。 主題は前著と同じだが、大幅に加筆されており、別の本と言っても良いかも知れない。 しかし、加筆したことで、同じことを何度も書いており、くどくなっているのも事実である。
人間は動物としての生物であり、かつ社会的な生き物でもあるのは、当然のことである。 動物性と社会性の、どちらに力点を置くかによって、主張が変わるに過ぎず、動物的な側面を無視するわけにはいかない。 また、社会的な側面だけを強調することはできないが、社会性をどう捉えるかで、主張が大きく違ってくるだけである。 筆者の立場は、完全な社会派と言うだけであろう。 女性が物として見られていた、筆者は言う。かつてはお金を払ってセックスをするのが、男らしく正しい行為であり、タダでセックスする男はとんでもない存在だった。 要するに、非難されるべき唯一の悪事は、男が女と性交して代償(お金、プレゼント、結婚など)を払わないことであった。どれほどひどい形で性交しても、それ自体は悪事ではないのであった。昔なら、お金に汚いケチな行為が、現在は男女平等の自由な性関係で、昔なら、道徳に従っているとして容認される行為が、現在はお金で女を自由にする卑劣な行為であるという変化がここ何十年かに起こったのである。P62 筆者は近代の資本主義社会が、すべての行為を貨幣で序列化し、セックスの管理も金銭に置きかえたという。 その反対現象として、女性の性欲が否定されたのだという。 このあたりの事情は、別に本能が壊れたと言わなくても、充分に説明が付く。 女性の管理=核家族の誕生は、恋愛結婚と結びついて、男性支配の社会を作ったとは、いまでは定説であろう。 少なくとも明治以前の日本においては、性交が好きで多くの男と寝る女を非難し、軽蔑し、処罰した歴史は、わたしの知るかぎり、なかったと思われる。童貞の筆下ろしをするなど、村の多くの男と寝る後家などは「お助け観音」と呼ばれて感謝されていたそうである。日本語にセックス好きの女を指す「淫乱女」とか、多くの男に「やらせる」女を指す「公衆便所」とかの言葉ができたのは明治以後のことである。江戸時代の「好色女」は、色の道をわきまえた魅力的な女と沖う意味であって、男たちに人気のある好ましい存在であった。P339 という筆者の発言は、基本的に賛同できる。 セックスが悪いことではなかったというのは、前近代では当然のことだったように思う。 その限りでは、筆者の意見に賛成なのだが、それを筆者は<罪の意識>と<恥の意識>で説明している。 しかも、罪の意識は、キリスト教と関連つけられて、恥の意識は日本性と関連つけられる。 現象面としては、筆者のいうとおりだが、現代のアジアでもセックスに対する感覚は、かつての我が国と同様に感じる。 特別に愛していなくても、馴染みを感じれば、セックスをするのが自然だという感覚は、罪と恥だけではなく、もっとその社会の産業と結びついた意識ではないだろうか。 愛とセックスを結びつけた工業大学の近代に問題があったようだ。 それに関しては、筆者も同じことを言っている。 西欧においても日本においても、女の性欲が否定されたのは近代からであるが(近代に性欲が発明されたわけであるが、男の欲望として発明されたのであって、発明されたと同時に、女には否定されたのである)、これまたすでに述べたように、女にも性欲があることを認めれば、女もセックスによって満足が得られることになり、女体・女性器の商品化と道具化に差し支えるからであった。セックスをあくまで男に対する女のサービスとしておくためには、また、女性器を男が任意に使える受け身の道具にしておくためには、そして、そうすることによって、セックスにコストをかける(お金を払う)ことを男に納得させるためには、女に性欲があってはならなかった。女は、自分の商品価値を高めるためには、性欲などもっていないかのような顔をしていなければならなかった。セックスしたいことを正直に示せば、女は安っぼく見られるのであった。P356 女性から職業を奪うこと=専業主婦を作りだすことが、いかに女性の自主性を妨げ、自由を奪ったか。 筆者は女性差別を、そうとうに理解しているようでありながら、最後のところで隔靴掻痒の感がぬぐえない。 売春も肯定しているし、女性の性欲も認めている。 それでありながら、何となく歯切れの悪さが残ってしまう。 75歳という筆者の年齢を考えれば、かなり柔軟な思考であると思う。 とくに、女学生たちが筆者に言っていることを、真摯に受け止めているのは、ほんとうに好感が持てる。 自分にはできないなとは思いながら、女学生たちの自由な性生活を否定せず、聞き役に回っているのは同感である。 (2009.1.17) 感想・ご意見などを掲示板にどうぞ 参考: 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992 石坂晴海「掟やぶりの結婚道 既婚者にも恋愛を!」講談社文庫、2002 梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001 山村不二夫「性技 実践講座」河出文庫、1999 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002 プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 高月靖「南極1号伝説」バジリコ、2008 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 佐々木忠「プラトニック・アニマル」幻冬社、1999 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 白倉敬彦「江戸の春画」洋泉社、2002 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 パット・カリフィア他「ポルノと検閲」青弓社、2002 匠雅音「性差を超えて」新泉社、1992
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