著者の略歴−1980年から96年まで英国マンチェスター大学で動物学の上級講師を務めた後に学界を離れ、現在は著述・講演・放送なとで幅広く活躍している。数多くの学術書・論文のほか、特に一般読者に注目された著書に『精子戦争』(1996年)がある。5人の子供を持ち、1974年以来マンチェスターに在住している。 人工授精、体外受精、精子や卵子の冷凍保存、代理出産、クローン技術などなど、 生殖技術の進歩は止まるところを知らない。 倫理を持ち出して技術進歩に歯止めをかければ、その国は技術進歩にたちまち置き去りにされる。 数年後には、他国の後塵を拝することになる。 本書は生殖技術の進歩が、家族に与える影響を考察したものである。
不妊治療として始まった生殖技術は、いまや生物学的な親子関係を越えてしまった。 血縁のまったくない子供を出産できる時代になった。 そこで旧来の親子観では、対応できない現象が生まれている。 本書は個別的な現象に止まらず、家族像全体へも考察を広げる。 核家族は、生物としての人間の営みの中で発生した制度であって、政治や宗教の産物ではない。自然発生的な制度の常として、核家族もまた、特定の条件下で形成される。条件が変われば崩壊するのは当然だ。倫理学者や政治家の意図は関係ない。 安定した核家族を築く条件は、女性は男性の助けを借りて子育てすること、男性には女性の妊娠可能な時期が分からないことである。この条件の下、相手の浮気を恐れる気持ちが接着剤の役割を果たして、男女を結びつける。男性の援助を受けられない妊娠は女性にダメージを与え、貧困状態に陥れる。男性には、他の男の子どもを養育する危険性がつきまとう。両者にとっての解決策は、できるかぎり一緒にいることである。しかし、ダメージへの抵抗力がついたり、妊娠可能性判定キットが登場するなどして条件が変化すると、セメントは脆くなる。いったん転換点を通過したら、核家族を支えてきた諸条件はすべて消滅する。現代社会はまさにその方向に向かって進んでいる。P66 現在は、単親家庭とくに母子家庭に対する評価は低い。 母子家庭の収入は低いし、愛情を注ぐのが半分だとして、否定的に見られる。 しかし、かつて標準家庭といわれた対なる男女と子供2人という組み合わせは、いまや少数派に転落した。 先進国においては、単親家庭が少数派から主流になりつつある。 こうした傾向は、我が国も例外ではない。 単親家庭の最大の問題は、収入の低さである。 これが解決されてしまうと、単親家庭の不利益は消滅する。 大家族だった時代には、土地が生産基盤だったので、旧家ほど土地持ちだった。 核家族は分家とか新宅と呼ばれて、本家より収入は低かった。 しかし、今日の核家族は貧乏ではない。 現実に単親家庭が増えてしまえば、税制や法律を変えて、単親家庭を保護しなければならなくなる。 単親家庭の増加傾向に、生殖技術が拍車をかける。 女性の社会的台頭によって、妊娠することが女性の意志の元におかれるようになった。 妊娠や授乳は、女性ホルモンを変化させ、女性のキャリアに大きな影響をもつ。 また、無計画な妊娠や中絶で、キャリアが台無しになることだってある。 将来の職業生活が見えない中で、女性は妊娠に慎重になった。 現在は妊娠しないこと=避妊と、出産しないこと=中絶は選択できる。 しかし、確実な出産は選択できない。生殖能力はいまだ天与のものである。 本書は、不妊の終焉から、妊娠時期が確定できるようになり、誰もが親になることが可能になるという。 精子や卵子の冷凍保存が普及すれば、家族関係が新しいものになるのは自明だろう。 未来経済の最小単位は単親家庭になるだろうが(第2章参照)、この単親家庭が孤立した存在になるとはかぎらない。第9話では、二つの単親家庭が一緒に生活することで、相互に助け合っている。母子家庭と父子家庭の組み合わせに限らず、必要に応じてさまざまな組み合わせが可能だろう。家計、居住空間、親としてのエネルギー、時間など、さまざまな点で、二つ以上の世帯が共同生活することには利点がある。P237 本書も言うように、単家族はけっして1人生活者ではない。 単家族の2世帯同居や、3世帯同居も充分に考えられる。 精神的な面においても、共同生活は利点がある。 だから単家族が同居するのは、まったく自然なことだ。 単家族というのは、経済力に自立しているというのであって、複数の成人が同居しないと言うのではない。 性交によって妊娠するのは、特別な費用はかからない。 生殖の選択肢は、社会的地位や経済力に左右される。 そのため、貧しい人々は性交による妊娠しか選択できないだろう。 性交に頼る貧しい者は、不妊を克服できない。 家族の形態も自由には選べない。先端的生殖技術は、金持ちのものでしかない。 しかし、情報社会化は個人へと分解するので、家族の単位は単家族にならざるを得ない。 歴史が証明するように、太古以来の衝撃に根ざした強い欲求はどれほど押さえつけようと必ず満たされるものだ。たとえ非合法化しても、かつての中絶や同性愛のように、陰に隠れて実行する人を増やすだけだろう。彼らはじっと耐え続け、反対者が少数派となり、反動化して支持を失ったとき、合法化という光の中に浮上することだろう。倫理学者の不毛な見解は、変化の到来を20年は遅らせるだろうが、新しいテクノロジーを自由に利用したいという欲求は、予測もしなかった飛躍を見せるかもしれない。P310 何時の時代にも、不平等はある。 情報社会になっても不平等は残るだろう。 しかし、新たな技術が進化を止めることはないだろう。 とすれば、技術の進歩に反対するのではなく、技術の適正な制御を考えるべきである。 (2005.02.13) 感想・ご意見などを掲示板にどうぞ 参考: 梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992 石坂晴海「掟やぶりの結婚道 既婚者にも恋愛を!」講談社文庫、2002 梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001 山村不二夫「性技 実践講座」河出文庫、1999 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002 プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 高月靖「南極1号伝説」バジリコ、2008 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 佐々木忠「プラトニック・アニマル」幻冬社、1999 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 白倉敬彦「江戸の春画」洋泉社、2002 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 パット・カリフィア他「ポルノと検閲」青弓社、2002
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