匠雅音の家族についてのブックレビュー   第二の性|シモーヌ・ド・ボーボワール

第二の性
T−事実と神話、 U−体験:上、 U−体験:下
お奨度:

筆者 シモーヌ・ド・ボーボワール 
新潮文庫、1997年 T−¥819、U−¥781、V−¥781

編著者の略歴−フランスの作家、思想家。パリの上流家庭に生れ、ソルポンヌ大学で哲学を学ぶ。女子高等中学校で教鞭をとった後、1943年、小説『招かれた女』の成功で作家生活に入る。49年、実存主義の観点に立つ画期的な女性論『第二の性』を著し、世界的反響を呼ぶ。終生のパートナー、サルトルとともに、反戦・人権擁護の運動で精力的な言論活動を展開した。70年以降、フランスの女性解放運動に積極的に参画、大きく貢献した。主な著作に、『他人の血』『レ・マンダラン』『老い』、自伝4部作(『娘時代』〜『決算のとき』)等がある。
 人文書院からボーヴォワール著作集がでていた。
その6巻と7巻に「第二の性」が入っており、ボクはこれを読んでいた。
生島遼一の翻訳だったが、生島遼一の翻訳には何だかクレームが付いていた。
そのため、「第二の性」を取り上げるのは躊躇していた。
今回、<「第二の性」を原文で読み直す会>という女性グループが、大勢で翻訳した新潮文庫版で読み直してみた。

 生島訳では原著の構成とちがって、原著の第2巻が先頭に来ている。
そのため、筆者の真意が伝わらないと言った批判があった。
たしかに原著の構成を変えるのは、翻訳者の裁量の範囲を超えているだろう。
しかし、今回読んでみて、生島訳より読み直す会訳のほうが良いとは思えなかった。
しかも、文章の運びは生島遼一訳のほうが良いように感じた。

 ということはさておいて、本書は1949年という戦争が終わった後に、フランスで出版されている。
まだ戦争の名残が残っていた時代に、このような女性論が出たことは驚きである。
ベティ・フリーダンの「新しい女性の創造」がでるのは1957年だから、「第二の性」が8年先行している。
この8年は大きい。

 戦後のこの頃は、アメリカには知的な雰囲気がなかった。
知に関するものは、ヨーロッパが先行していた。
アメリカへの亡命が、アメリカの知的財産を作ったと言っても過言ではない。

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 本書はマルクス主義の影響を受けた古い女性運動の総決算であり、中産階級の女性のおこすフェミニズムへの橋渡しだった。
さすがに階級闘争に勝利すれば、女性が解放されるといった脳天気楽さは本書にはない。
しかし、1956年に始まるスターリン批判以前に出版されているので、革命ソ連に対する大きな思い入れがある。
その後の歴史をみれば、マルクス主義とフェミニズムはミスマッチだったのは明白だが、本書の限界は時代のなせるところだろう。 

 今日では、肉体的な性別と社会的な性差を分けて考えるのが当然とされる。
筆者は第2部の冒頭を、<人は女に生まれるのではない、女になるのだ>という有名な一文で書き始めている。
これはきわめて現在的な認識で、この認識があるから性別と性差が分けることができる。
生島遼一はこの言葉を一番前に出すことによって、筆者の言いたいことをより強調したと思う。

 びっしりと文字が組まれた文庫版で、500ページ近い3冊本である。
この文を先頭に出した意義は大いにあるだろう。
性別は地球上、何時の時代でも変わらないが、性差は時代や社会によって変わるものだ。
その後のフェミニズムの歴史をみると、生島遼一のフライング的な慧眼は当たっていたと言うべきである。

 筆者は現在の女性の状況を、じつに冷静に見ている。
とにかく女性は男性に劣っている。
第二の性でしかない、と断言する。
どこがダメなのか、延々と事実をあげていく。
歴史がさかのぼれるかぎり昔も、女はつねに男に従属していたとか、女は自分たちに固有の過去、歴史、宗教を持たないと言う。
とにかく劣位にある女性の有り様を、これでもかと記述していく。

 我が国の大学フェミニズムは、原始女性は太陽であったといってしまい、筆者のような冷静な事実認識ができない。
筆者はけっして男性を責めていない。
女性の自立は自力でなさねばならぬ、と固い決意を感じる。

 女は男より弱い。男より筋力が弱く、赤血球も少なく、肺活量も少ない。男より速く走れず、重いものも持ちあげられず、男と競いあえるスポーツはほとんどない。格闘で男に対抗することはできない。こうした弱さに加えて、前に述べたような不安定性、コントロール不足、脆さがある。これらは事実である。したがって、世界への女の手がかりは男より制限されている。種々の計画において、男より意志力、粘り強さに欠け、また、それを実行する能力も乏しい。つまり、女の個的生活は男ほど豊かではないということになる。T−P88

 この自己認識をもつのは大変なことだ。
自分の弱さや劣位性は認めたくはないものだろう。
しかし、事実を認識しなければ、現実へ働きかけようがない。
筆者は冒頭で女性の弱さを認めている。

 生まれてくる子どもは共同体の資産から見て多すぎた。途方もない多産のせいで、女は資産を増やすのに積極的に協力できず、一方で新しい需要を際限なく生み出していたのだ。種の保存に必要とはいえ、女は過剰に種を保存した。再生産〔生殖〕と生産のバランスを保ったのは男である。このように、創造者である男に対して、女は生命を維持する特権さえもっていなかった。女は、精子に対する卵子の役割、男根に対する子宮の役割を演じていたのではない。女は、人類が自らの存在をたゆみなく継続していく努力の一部分を削っていただけである。そして、この努力が実際に成果をあげたのは男のおかげなのだ。T−P134

 なぜ女性が劣位に置かれたか、しつこいくらいに考えている。
決して男性のせいにしない。
女性は弱者だと開き直ることもない。
ただ淡々と、女性の劣位を記述していく。
そして、次のように言う。

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 女は家を出て工場で新たに生産に参加するようになったために、先史時代以来失っていた経済力をとりもどした。この大変動を可能にしたのは機械だった。男性労働者と女性労働者の体力の差がほとんどの場合解消してしまうからである。産業が急速に飛躍し男性労働者の供給できる労働力以上のものが要求されるようになると、女の協力が必要となる。これこそが19世紀に女の境遇を変え女に新しい時代をひらいた一大革命だった。T−P245

 女は教育を受けることができず、それゆえに高等な労働力になることができなかった。
近代の初期では、女性は安価な労働力として酷使され、辛酸をなめさせられた。
それは、細井和喜蔵の書いた「女工哀史」を読むまでもない。
近代初期のイギリスにおいても、イースト・ロンドンを見ればわかるように、女性が酷使されたのは周知である。 

 しかし、我が国の女性論者たちのように、男性社会を責めてみても、問題は解決されないことを知っているのだろう。
筆者はそれを知っているから、じつに冷静な現状分析を重ねてみせるのだ。
劣位にあるがゆえに、男性と同じ、いやそれ以上の認識も仕事もできない。
この事実認識こそ、社会変革へのスプリング・ボードなのだ。

 女の性的興奮は男の知らない強烈さに逢することができる。男の欲望は激しいが局部化されていて、男は欲望のために−おそらく痙攣の瞬間を除いて−自意識を失わない。女は反対に自分がまったく無になってしまう。多くの女にとって、この変貌は愛の最も官能的で最も決定的な瞬間だ。しかし、その変貌はまた魔的で恐ろしい性格をもっている。U−P246

 ここでも我が国の女性論者たちが語らない性を、その深淵までのぞき込み、赤裸々に描いている。
とにかく事実をとらえる。
願望を入れずに、事実を記述する。
これこそ西洋フェミニズムが辿りついた地平であり、ここに至ったからこそ「新しい女性の創造」へと連なったのだ。
この認識がなかったら、女性運動は女権拡張運動で終わり、フェミニズムへと孵化できなかっただろう。
 
 母親は出産という偶然的事実性を神聖な神秘にまで高めたのだ。人間の決定の方が重みをもつことを認めるわけにはいかない。彼女の目には、価値は既成のものであって、自然や過去に由来するのだ。彼女は自由な世界への参加の価値を認めない。息子の生命は彼女のお蔭であり、昨日まで知りもしなかったあの女が彼にとって何だというのか。これまで存在していなかったつながりが存在するかのようにあの女が息子に思い込ませたのは、なにか魔法の力によるのだ。V−P211

 日本の女性論者が出産に拘り、母親であることに拘る。
筆者はそれを知ってか知らずか、出産は偶然的事実だと言い放つ。
そして、あの女、つまり恋人や妻との確執を記述していく。
強烈な個人性であり、自立への強い意志を感じる。

 女性市民は選挙権をもつようになった。とはいえ、経済的自立が伴わなければ、この市民としての自由は抽象的なものでしかない。妻であれ愛人であれ、扶養されている女は、投票用紙を手にしたとしても、男から自由になったわけではない。かつてほど慣習による制約を押しっけられなくなったとしても、こうした消極的な自由によって、女の状況は完全に変わったわけではない。女は依然として従属的地位に閉じ込められたままである。女が男と女を隔てていた距離の大部分を乗り越えたのは労働によってである。労働だけが実質的自由を女に保証してくれる。寄生的な生き方をやめたときから、依存することで成り立っていたシステムは崩れ、女と世界のあいだに男の仲介はもはや必要ではなくなる。V−P386

 まさに至当な結論である。
この結論を実現するために、筆者は大著を書き進めてきたのだ。
強固な意志に感動する。

 これだけの先行文献を与えられながら、我が国の女性論者たちは一体何をやっていたのだろうか。
西洋諸国の女性運動が、歴史を大切にし、女性の地位の向上に成果を上げてきた。
にもかかわらず、我が国の女性の地位は未だに低いままだ。
書かれたものすら読めない我が国の大学フェミニズムは本当に悲劇的だった。
我が国の女性の地位が、50年前と変わらないと言われても、肯首してしまう所以である。
(2011.8.2)
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参考:
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
H・J・アイゼンク「精神分析に別 れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988
J・S・ミル「女性の解放」 岩波文庫、1957
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」 筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と 喪失:母の崩壊」河出書房、1967
田中美津「いのちの女たちへ」現代書 館、2001
末包房子「専業主婦が消える」 同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、 1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジ ンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワー クス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、 1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」 大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書 房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現 代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職 域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」 宝島文庫、2000(宝島社、1992)
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」 とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新 潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参 画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」 ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、 1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべ きではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」 東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」 角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、 2004
大塚英志「「彼女たち」 の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」 有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、 2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」 水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、 1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書 店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、 1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」 思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書 店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト 経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」 平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」 現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の 水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社 会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」 二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、 2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、 1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、 1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、 1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」 中公新書ラクレ、2009
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文 庫、2003
光畑由佳「働くママが日 本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」 草思社、1997
奥地圭子「学校は必要 か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもから の自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男 だけの育児」飛鳥新社、2001
末包房子「専 業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働 と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史  まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
信田さよ子「母が重くてたまらない」春秋社、2008
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
ミシェル・ペロー編「女性史は可能か」藤原書店、1992
マリリン・ヤーロム「<妻>の歴史」慶應義塾大学出版部、2006
ジャーメン・グリア「去勢された女」ダイヤモンド社、1976
シモーヌ・ド・ボーボワール「第二の性」新潮文庫、1997

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