著者の略歴−1947年広島生れ。画家。作品制作のかたわら多方面にわたる評論活動を展開する。著書に『イエロー感覚』(冬樹社)、『<女性原理>と「写真」』(国文社)、「超少女へ」(集英社文庫)、『ママハハ物語』(思潮社)、『ハイブリッドな子供たち』(河出書房新社)等がある。2008年没。 去年亡くなってしまった筆者は、上野千鶴子と「つるつる対談」なる本を上梓している。 そのため、仲間同士で対談しており、上野さんと同じスタンスなのだと、早トチリをしていた。 筆者は上野千鶴子を厳しく批判しており、けっして同じスタンスではない。 むしろ、敵対的ですらある。
本書を読むと、筆者の言には傾聴すべき点が多く、もっと早く読んでおくべきだった、と悔やまれる。 女性は弱者だというフェミニストが多いなかで、筆者は自立をめざした本当のフェミニストだったと言っていい。 本書が出版されたのは1989年であり、ボクが「性差を越えて」を上梓したのは1992年だから、それよりなお3年前である。 当時は、筆者のようなスタンスにたつ女性は少なかった。 筆者も本書の中で言っているが、上野千鶴子派が多数で、筆者は少数派だった。 筆者の立場が主流になっていれば、我が国のフェミニズムは随分と明るく、もっと発展的になっただろう。 とても残念におもう。 筆者は女性であることよりも、家族にこだわっている。 このコダワリが、おそらく筆者の感覚を間違いのないものにしていたのだろう。 問題もある。 筆者は男女がダブルインカムの生活をすべきだと言っており、性別役割分業を否定している。 そうでありながら、性別役割分業を実践しても、幸福である女性はそのままで良い。 他人の幸福をとやくかく言うべきではないという。 性別役割分業の近代核家族を批判していながら、核家族を壊そうとはしていない。 むしろ、愛情でつながる一夫一婦制を推進している。 夫婦のあり方は、誠実な愛情によって結ばれるべきだという。 そして、もちろんのこと夫婦は、性的にも1対1に結ばれるべきで、婚外のセックスは否定されるべきものだという。 この論は、結局のところ核家族の欺瞞に絡めとられていった。
しかし、ここが問題なのだが、これまでの日本の近代社会は常に「個人性」よりも「集団性」を優先させてきた。なにごともみんなで渡れば怖くない式のアレである。その結果「集団」を支える規範はあっても、「個人」を支える規範は希薄である。それゆえややもすれば規範の希薄な「個人」優先主義が発生し、それはエゴイズムと同義になることが多い。「家族」でいえば個々のエゴイズムのために「集団」としての協力体制が失われる。P59 と、ここでかつての「家」から、都市型の核家族へと続き、核家族が上手く機能しないという結論になっていく。 いまから20年も前の出版だから、核家族の先を考えろというほうが無い物ねだりだろう。 しかも、筆者の本業は画家であり、物書きは余技に過ぎないのだ。 筆者は近代を性別役割分業の一色だったという。 そして、多元的な生き方を許容するのが、ポストモダンだといって原理的な論理指向を否定する。 筆者の論敵である全共闘世代の多くの男たちが、上の世代に対する観念論的抵抗と批判を展開しているといっているが、ボクなどさしずめ典型的な論敵かもしれない。 ボクは、核家族から単家族になるといっているのだから、原理的な論理指向である。 多元的な生き方を良しとする、筆者のセンスは買うとしても、どんな生き方をしても同じ扱いにならなければ、不公平である。 つまり、性別役割分業の核家族を選ぼうと、独身生活を選ぼうと、同じように公平な取り扱いになるべきだ。 核家族を選ぶと戸籍が独身者と違ったり、税金の扱いが変わることは、筆者も望むところではないはずである。 個人的な信条として、どんな生き方をしようとも、まったく構わない。 しかし、どんな生き方をしても、社会的な扱いは同じであるべきだし、生き方によって制度的に有利・不利があってはならない。 筆者自身が、事実婚の実践者であったし、自らの収入をもっていたので、筆者自身の生き方をとやかく言っているのではない。 社会的な制度として、性別役割分業の核家族を残置することが、不公平を生みだしてしまうのだ。 社会的な制度としての家族を問題にすべきであり、個人的な生き方を問うたり、意識を問題にすると、行きつく先はファッシズムにしかならない。 単家族は誰にも公平な制度である。 だから、「核家族から単家族へ」と、家族制度を変換しなければならないのだ。 そう考えると、1972年に「反結婚論」を書いた岡田秀子が、いかに先進的で根元的だったかがよく判る。 女性の寿命からすれば、61歳での死は早すぎる。 もし生きていれば、単家族論への意見を聞きたかったと思う。 とても残念。 と同時に、筆者を大学フェミニズムの1人と、間違えてしまったことを反省している。 冥福を祈るばかりである。 (2009.12.1)
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