編著者の略歴−1908年11月28日 - 2009年10月30日、フランスの社会人類学者、思想家。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。 上下合わせて800ページという大著で、筆者の名前を世に知らしめたのが本書である。 フランスでの初版は1949年で、本書は1967年に再販されたものを訳している。 内容的には初版とほとんど違いはない、と翻訳の監修者があとがきで書いている。 同じ1949年には、マードックの「社会構造」も出版されており、社会人類学には実り多い年だった。 本書はきわめて有名だが、内容的には読みづらくて、読了するのがなかなか大変である。 監修者は原文に忠実にをモットーにしたとあり、いくらフランス人でももう少し平易な文章にできそうだと言っている。 翻訳の苦労が偲ばれる。 そんなことも手伝って、青弓社から新訳が出ているのだろうか。
その理由を生物学的な理由に求めて、劣性遺伝が頻発するからだということがある。 しかし、筆者はこの考えを採らない。 近親婚が禁止されているのは、社会的な理由によるのだ、と一貫して主張している。 仮りに、近親婚の禁止の根源が自然の中にあるとしても、我々がそれを理解できるのは、その表現によって、つまり社会的規則としてしかない。各集団によって、その適用範囲と同様、その形態に関しても極端に異なっている。我我の社会では、それは非常に限定されているが、北米のいくつかの部族では、最も遠い親族にまで拡大されている。つけ加えるまでもないことだが、この場合、近親婚の禁止は、実際の血縁関係−これはしばしば証明不可能で、存在しない場合すらあるのだが−よりも、血縁のつながりのない二個人を、「兄弟」、「姉妹」、「親」、「子」などに分類するところの、純粋に社会的な現象を対象としている。この場合、近親婚の禁止は外婚の規則と区別がなくなる。上−P96 近親婚の禁止と外婚制を結びつけて考え、近親婚を禁止することによって、社会を外婚制へとひらき当該社会の閉塞性を打破するものとしている。 近親婚の禁止とは、近親者との結婚を禁止するものではなく、むしろ親族以外の結婚を強いるものだという。 近親婚を禁止することによって、女性が他の社会へと嫁がされ、社会は外部に向かって開かれるのだ。 嫁ぐことを筆者は、女性の交換という言葉で語る。 男女間の性関係は全体的給付の一面であって、婚姻は全体的給付の一例を提示し、そして同時に全体的給付の機会ともなっている。これらの全体的給付は物質財、特権、権利、義務といった社会的価値、それに女性を対象としている。婿姻を構成している総体的交換関係は、それぞれが何かを与えたり、受取ったりする一人の男と一人の女の間に成立するのではない。その関係は、男性から成る二つの集団の間に成立するのであり、そこでは女性はその関係の相手としてではなく、交換される物の一つとして姿を現わす。 上−P229
だから、男性は交換の対称にならないこともあるが、結婚によって女性は父親の所有から夫の所有へと所有権が移動したと読める文脈である。 フェミニズムが構造主義に依拠するとすれば、この部分に対する評論を避けて通ることはできない。 この部分は非常に有名だと思うが、大学フェミニズムの女性たちはどう考えているのだろうか。 筆者の論は、まず男性支配の社会があって、その社会が外婚性を採用し、近親婚を禁止していると考えている。 女性が社会的な支配権を持った社会を、最初から排除して考察しているのだ。 女権社会が存在しないのは自明であるというわけだ。 ボクも母系社会は存在しても、アマゾネスのような女権社会は存在しないと考える。 母系社会であっても、社会的な支配権は男性がにぎっており、父系社会より以上に男尊女卑の社会である。 本書の中盤から後半にかけては、さまざまな事例を引いて論証している。 そのすべてに付き合うのは、正直言って辛いものがある。 いささかの斜め読みになってしまった。 けれども、近親婚の禁止が生物的なものではなく、社会的なものであり、近親婚を続けていくと当該社会が閉じて行ってしまうからだ、と言うのは納得できる。 筆者の扱う近親婚の禁止は、叔父・メイとか叔母・オイ、イトコなどの二親等以上である。 平行イトコと交叉イトコの違いは丁寧に論じているが、親子という関係には論及していない。 筆者のいうように、近親婚が禁止されているのが社会的な理由によるのだとしたら、親子間の近親相姦の禁止も社会的な理由によるものだろう。 親子という世代の異なる者にセックスを許すと、セックスの平等化作用によって親子が横並びになる。 セックスの快感自体が、親子という上下の立場を壊してしまうのだ。 親子という世代関係が消滅してしまうと、文化を受け継ぐことができなくなる。 それでは人間社会は消滅に向かってしまう。 そのうえ、親子間のセックスであっても新たな生命を誕生させる。 親子間のセックスによる新たな生命の誕生は、親子間の世代観念を破壊する。 たとえば、父親と女の子がセックスをして新たな生命が生まれると、父親は女の子に対して父親のままでありながら、女の子は新たな生命の母親になる。 父親と女の子は、新たな生命に対して同じ世代になって、横並びになってしまうのだ。 横並びになってしまえば、親世代から子供世代へと流れるべき、文化が承継されなくなってしまう。 人間は年齢秩序を守らないと、文化を継承できず社会を維持できなかった。 親世代にとって、世代の無化は、自分自身の否定につながる。 だから、親子間のセックスには、親世代に無意識のブレーキがかかっていたのだ。 兄弟姉妹間のセックスを必ずしも禁止しない社会はあるが、親子間のセックスを許す社会はない。 親子間の近親相姦を絶対的なタブーとした。 親子間のセックスは、言語という文化を根底で支えるものにかかわる。 そのため親子間のセックスは、どんな社会もタブーとしてきたのだ、とはボクの意見である。 外婚制を近親婚の禁止と結びつける考え方は、多いに参考になる。 親子間のタブーも、社会が閉じてしまうことへの楔なのだろう。 しかし、1949年に出版された本書から、家族論はいくらも進歩していないのだろうか。 いささか考えてしまう。 (2011.3.28)
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