著者の略歴−1927年生。女性の立場から見た人口論で1957年度毎日新聞社日本研究賞を受賞。女性、ジェンダー、セクシュアリティの比較文明論的研究を通して、近代の知のあらたな展望を模索しつづけている。主著「性差の文化−比較論の試み」(1982年、金子書房)、「フェミニズムの宇宙」(編著、1983年、新評論)、「女の人権と性」(共同執筆、1984年、径書房)、「フェミニズムとエコロジー」(1986年、新評論)、「女が自由を生きるとき」(1988年、オリジン出版センター) 1970年頃まで、学生運動にあけくれた団塊の世代も、多くが就職して結婚し、性別役割分業の核家族をつくっていった。 しかし、学生運動の余韻も手伝った、さまざまな生き方が模索されていた。 ボクもその一人なのだが、多くが結婚するなかでも、結婚制度に疑問をもち、いわゆる普通の生活からはみ出していく者たちがいた。
学生運動のエネルギーは、シングルという生き方をも自覚的にさせていった。 1980年代になると、ヘルマン・シュライバーの「シングルズ−脱結婚時代の生き方」や海老坂武の「シングル・ライフ」などが出版されて、結婚しない生き方が見なおされ始める。 なにしろ、1965年の国勢調査によれば、当時50歳の女性の既婚率は、98パーセントに達していた。 だから、誰でも結婚するのが当たり前で、一生独身でいるなんて誰も考えもしなかった。 そのなかで非婚者は、結婚できなかった可愛そうな人と見られていた。 しかし、本書が読まれる頃には、非婚に意味を見いだす人が生まれていたのだ。 本書は、15人の非婚者へのインタビューと、いくつかの対談で成り立っている。 インタビューされているのは若い人もいるが、高齢者もいて、それなりに充実した生活を送ってきたようである。 そのため、結婚できなかったという恨みはなく、明るい印象である。 しかし、筆者が女性であるせいか、結婚を女性問題として捉える匂いを感じる。 高度成長を経て、男性が企業戦士化されていき、女性が取り残された。 当時から女性運動はあったが、我が国の女性運動は若い人が主体で、専業主婦がエプロンを外したのではなかった。 そのため、結婚したくない女性と、結婚できない男性という形で、問題が捉えられた。 本書もその例外ではない。
と発言している男性がいるが、当時こうした発言は無視されがちであった。 蛇足ながら、ボクも無視されてきた一人である。 戦前戦後の近代化のなかで、性別役割分業の核家族こそ、女性たちの憧れだったのだ。 貧しかった時代には、女性といえども必死で働かなければならず、専業主婦などといって家事・子育てだけに専念するわけにはいかなかった。 農家であれば、夜明けから日没まで、田や畑で働かなければならず、厳しい肉体労働が続いたのだ。 そうしたなかで、家事・子育てだけに専念する専業主婦は、何とも優雅に見えたのだ。 国民の多くが農民だった戦前から、戦後になるとサラリーマンが多くなって来る。 そこで女性は結婚によって、厳しい労働から解放される道筋が見えてきた。 だから、多くの女性が性別役割分業に憧れたのだ。その結果、女性が核家族に入ってしまった。 その過程は、「モダンガール論」で斉藤美奈子が描くとおりである。 産業化がはじまった社会では、ある時点までは都市より農村の方が性解放的でかつ男女同権的であり、ある時点でそれが逆転するということがわかる。これは、アメリカでも、女性の参政権が東部からではなく南西部から実現されているという意外な事実によっても証明されるし、日本の明治から大正への性風俗の変遷を見てもその傾向が現れている。 こうした現象は、近代化がすすめば、それに比例して個人の自由が増大し、家父長制は解体に向かうとする従来の単純な近代化論では説明がつかない。非婚の社会史をさぐり出そうとすれば、私たちもまた、これまでの常識を疑ってかからなければならない。なぜなら、性が解放的で家父長的覊絆のゆるやかな文化圏における方が非婚の許容度が高く、その逆はありえないという推測が当然なり立つからである。P214 近代化は、男性を田畑から会社へと縛りつけ直したが、女性は田畑から男性の稼ぎに縛りつけ直された。 女性も社会的には豊かさを享受しながら、男性の支配下に組みこまれたのだ。 近代化とは、オリーブ・シュライナーもいうように、女性を労働の現場から切り離してしまった。 だから、女性が男女同権になるには、女性も働くしか道はなかった。 しかし、我が国の女性運動は、違う道を歩いてしまった。 本書も良いことを言ってはいる。 しかし、女性が働くことを志向していないので、結局、風俗に流されている。 時代の制約とはいえ、すでにこの頃から、我が国のフェミニズムは限界を持っていたのだと感じる。 子育てなど無視して、男女を問わず<仕事をよこせ>というのが、正しいスローガンだったのだ。 (2010.1.18)
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