著者の略歴−1930年、東京に生まれる。慶応義塾大学医学部卒。慶応義塾大学環境情報学部教授、医学博士。フロイトおよび現代精神分析を広く研究・紹介し、欧米の精神医学界との交流につとめる。日本で数少ない家族精神医学の権威。著書に『現代精神分析T.U』『フロイトその自我の軌跡』『モラトリアム時代の人間』『日本人の阿闇世コンプレックス』『自己愛人間』『一・五の時代』、編著に『講座家族精神医学』(全四巻)、ほかがある。 本書が1983年に上梓されていることに、いささかの驚きを感じる。 いまから27年も前に、家族が変質していくことを明確に予言し、しかも新たな方向を打ちだしている。 筆者も言っているが、アメリカの動向は30年遅れで、我が国にも到来する。 そのため筆者は、アメリカの現状を勉強しているのだという。
多くの論者は、現状の家族が変化している、今後も変わるだろうことは認識している。 変化に対して、対応は2つに分かれる。 まず、変化に対して変化を否定し、現状の家族を維持し、古い家族へと戻ることを良しとする立場がある。 もう1つは、変化は仕方ないものとして認め、それに対する新たな対応を模索する立場がある。 筆者は明らかに後者に属している。 「核家族から単家族へ」をいう当サイトも、もちろん後者の立場である。 家族は個体維持と種族保存という、2つの役割をもっている。 個体維持からは個人の欲求を満たす行動がうまれ、種族保存からは子供を育てる行動が生まれる。 かつて家族とは、生産組織だった。 生きていくために、どうしても家族を作らないと、生活ができなかった。 それは農業という産業が、家族しかも大家族(=拡大家族)であることを要求したのだ。 農業時代には家族に属さないと、生産組織に参加できない。 生産組織に参加できないと、食べる物を入手できず、個体維持ができない。 土地を耕すという労働が、人間の生き方を決めていた。 それが産業革命によって、工業が生まれ、土地だけが生産手段ではなくなった。 大家族に属さなくても、工場労働者になれば、生きていけるようになった。 しかし、工場は子供を産み育てることはできない。 種族保存のために、大家族は核家族となって残った。 農業時代の大家族は、多くの人を飲み込んだが、家族の中ではきっちりとした役割があてがわれた。 そして、役割を果たさない人には、容赦ない叱責がとんだ。 (大家族のなかでは)個々人の感情は、家庭の中の伝統的なきまりや秩序によって、抑圧されてしまい、お互いの感情と感情の衝突は押し殺されてしまった。それだけに感情の容れ物としての家庭の機能もまた、あまり露骨な形では、目に見えるものになりにくかった。 ところが、現代の核家族では、どうしても毎日果たさねばならない仕事を持った家族はいなくなり、家族内の序列もあいまいになってしまった。むしろ、家庭はだれもがすべての役割りや義務から解放されて、気ままにのんびりする場所になった。家族としての集団を規制する、ルールも秩序も失われてしまった。P40 ほんらいの核家族は、男性と女性が、父親と母親の役割をはたすものだ。 情報社会の進展により、核家族はますますその機能を失っている。
父親・母親は、父親・母親以前に男性・女性であり、この二人の愛情と性的な結合が家庭の基本であるという事実が、子どもたちにもはっきりとわかるような家庭のあり方を、健全なものとみなしている。それゆえに、必ずしも性的な意味ではないが、子どもの目の前で父親と母親が男女の愛情を確認しあい、それぞれよき男性・よき女性としての模範を子どもたちに提示する。P122 我が国の核家族では、一対の男女の同居という形態こそ同じだが、人間関係の内実が違う。 父親は男性であっても、男としての行動より父親として現れる。 そして、母親は女性であっても、女としての行動より母親として現れる。 父親と母親が男であり女であることは、隠されたままに置かれる。 つまり、父親と母親は、子供の前では男女の愛情表現をしない。 我が国の父親は、妻より子供が大事だし、母親は夫よりも子供が大事だという。 これは夫婦中心の核家族からの発言ではない。 核家族とは、まず何よりも一対の男女を核としているのだ。 繁殖力をもった男女が同居することから、核家族は始まるのであり、そこでは男女の愛情が家族の中心を支えている。 だから、核家族のなかでは男女の営みは、公認されなければならない。 しかし、我が国の父親と母親は、セックスレスが当然のようだ。 男性たちは会社に魂を売り渡し、仕事人間になってしまった。 仕事で評価されると嬉しいが、家族に評価されても大して嬉しくない。 職場で問題を抱えると、ウツになったりするが、家庭で問題を抱えても、ウツになることはない。 妻の役割は、夫が会社で立派に働けるように、家事を切り回し子育てをして、後方支援することである。 女性の自立は、こうした日本的な核家族の存在を許さなくなってきた。 女性は結婚せずに、自分の人生を歩こうとし始めた。 それは女性に職業が開かれたから可能になったのであり、今後も、ますます女性の能力が必要とされるだろう。 だから、女性は結婚を忌避するようになる。 女性たち(妻・母親)は自分たちの自立と、経済能力の獲得と、女性における性愛の満足を正当な要求として、公然と主張するようになった。 こうした動向が進むと、父親、母親は、子どもたちに対してまでも、男性、女性としての自分の権利と愛情の獲得を優先するという自分中心主義を徹底しておしつけることになった。つまり、自己愛人間化は、父親、母親が男性であり女性であるという自己主張をますますおしすすめるように働いたのである。もともと父親、母親である以前に、男性、女性であり、その愛情による男女の結合が家族の出発点であるという、エディプス的な心理構造をもった社会では、この動向はごく当然の成り行きである。 そして、この動向は欧米先進諸国で、さらに、離婚、再婚の多発と、コハビテーション(同棲者)の急増といった核家族のだれの目にも見える露わな崩壊現象を生みだしている。それにともなって、シングルズ(独身)で暮らす人々を大量に生み出している。この家族革命の進行とともに、第七草で述べるような子どもたちの被害も急増している。 しかし、それだけに彼らはそのすでに空洞化してしまった核家族に代わる新しい家族のあり方を模索する壮大な実験を始めている。そこには古い意味での「健全な核家族」幻想をかなぐり捨てて、新しい夫婦、家庭のあり方を求めるという積極性が含まれている。もしかしたらそれは、すでに家族とか家庭という言葉で呼び得るようなものではないかもしれない。 米国社会はこうした離婚、再婚家族を通して、新しい家族ネットワーク、あるいはヒユーマン・ネットワークの中で暮らす人間の新しい生き方を発見しようとしている。P208 女性の自立は、容赦なく押し寄せてくる。 そのため、日本的な子供本位の核家族であっても、女性は家族の中での役割を見いだせなくなるだろう。 子供を産みながら、母親役割に意味を見いだせなくなり、自分探しの旅にでざるを得なくなる。 女性は子育てが終わったら、何もやることがなくなる。 そこで自分の存在意義を問わざるを得なくなる。 性別役割の核家族は、女性にもはや安心を与えない。 これは1960年代のアメリカ女性が、体験してきたことだ。 本書の慧眼は、核家族の崩壊を家族の再編成ととらえ、社会の中で個人がヒユーマン・ネットワークを模索している、と捉えていることだ。 ネットワークとすれば、その単位は対という2人ではなく、個という1人だろう。 それは単家族に他ならない。 筆者の言うように、我が国は30年遅れでアメリカを追っている。 今頃になって本書のいうことが、我が国でも現出しはじめているのだろう。 (2010.3.05)
参考: H・J・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988 J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001 匠雅音「家考」学文社 M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005 越智道雄「孤立化する家族」時事通信社、1998 岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、1972 大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002 J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997 磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958 エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003 賀茂美則「家族革命前夜」集英社、2003 信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001 黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997 エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 ジョージ・P・マードック「社会構造 核家族の社会人類学」新泉社、2001 S・ボネ、A・トックヴィル「不倫の歴史 夢の幻想と現実のゆくえ」原書房、2001 石坂晴海「掟やぶりの結婚道」講談社文庫、2002 マーサ・A・ファインマン「家族、積みすぎた方舟」学陽書房、2003 上野千鶴子「家父長制と資本制」岩波書店、1990 斎藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001 斉藤学「「家族」はこわい」新潮文庫、1997 島村八重子、寺田和代「家族と住まない家」春秋社、2004 伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004 山田昌弘「家族のリストラクチュアリング」新曜社、1999 斉藤環「家族の痕跡」筑摩書房、2006 宮内美沙子「看護婦は家族の代わりになれない」角川文庫、2000 ヘレン・E・フィッシャー「結婚の起源」どうぶつ社、1983 瀬川清子「婚姻覚書」講談社、2006 香山リカ「結婚がこわい」講談社、2005 山田昌弘「新平等社会」文藝春秋、2006 速水由紀子「家族卒業」朝日文庫、2003 ジュディス・レヴァイン「青少年に有害」河出書房新社、2004 川村邦光「性家族の誕生」ちくま学芸文庫、2004 菊地正憲「なぜ、結婚できないのか」すばる舎、2005 原田純「ねじれた家 帰りたくない家」講談社、2003 A・柏木利美「日本とアメリカ愛をめぐる逆さの常識」中公文庫、1998 塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 サビーヌ・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」原書房、2001 棚沢直子&草野いづみ「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか」角川ソフィア文庫、1999 岩村暢子「普通の家族がいちばん怖い」新潮社、2007 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993 高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992 加藤秀一「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」ちくま新書、2004 バターソン林屋晶子「レポート国際結婚」光文社文庫、2001 中村久瑠美「離婚バイブル」文春文庫、2005 佐藤文明「戸籍がつくる差別」現代書館、1984 松原惇子「ひとり家族」文春文庫、1993 森永卓郎「<非婚>のすすめ」講談社現代新書、1997 林秀彦「非婚のすすめ」日本実業出版、1997 伊田広行「シングル単位の社会論」世界思想社、1998 斎藤学「「夫婦」という幻想」祥伝社新書、2009 マイケル・アンダーソン「家族の構造・機能・感情」海鳴社、1988 宮迫千鶴「サボテン家族論」河出書房新社、1989 牟田和恵「戦略としての家族」新曜社、1996 匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
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