匠雅音の家族についてのブックレビュー   暴力は親に向かう−すれ違う親と子への処方箋|二神能基

暴力は親に向かう
すれ違う親と子への処方箋
お奨度:☆☆

著者:二神能基(ふたがみ のき)   新潮文庫 2010(2007)年 ¥552−

著者の略歴−1943(昭和18)年、韓国大田市生れ。NPO法人「ニュースタート事務局」代表。早稲田大学政治経済学部卒業。学習塾、幼稚園経営を経て、世界各地の教育プロジェクトに参画。早稲田大学講師、文部科学省、千葉県などの各種委員を歴任。’93(平成5)年から目的を喪失した若者をイタリアのトスカーナ地方の農園に預け、彼らの元気を取り戻そうとするプロジェクトを手がける。その後、千葉県でひきこもりや不登枚、ニートの若者たちの再出発を支援するNPO法人「ニュースタート事務局」を設立。著書に『希望のニート』『暴力は親に向かう』『「子供のために」を疑う』『勝ち負けから降りる生き方』がある。
 新潮社が版元だし、露悪的な書名が、現状維持的な感じがしたので、おそるおそる読んだ。
最初のうちは、現状を嘆くだけなので、家族を守れ派の本かと思った。
しかし、4章の<「勝ち組教育」がすべての根源>あたりまで読みすすむと、筆者の言うことに肯けるようになる。
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暴力は親に向かう

 家庭内暴力はその当事者になったら、とにかく今のこの暴力を何とかしてくれと、言うことになるだろう。
そのため、戸塚ヨットスクールのように、子供をより大きな暴力にさらすことになる。
しかし、暴力に暴力を対置したところで、何も変わることはない。
筆者は暴力までいった場合には、即効薬はないと言う。

 子供が暴力をふるうに至るのは、それなりの背景があるのだ。
だから、暴力だけを取り上げて、子供を責めても問題は何も解決しない。
暴力をふるわざるを得ない状況に追い込まれたことこそ、問題の根があるのだ。
引きこもったり暴力をふるうのは、特別に病的な子供ではなく、ごく普通の子供である。
むしろ、良いこと言われた子供たちだ。

 暴力をふるうようになる前には、不登校があり、引きこもりが先行する。
筆者は、問題児とはごく普通の子供であり、彼(女)等はむしろ自責の念にかられているという。

 学校に行っていない若者というのは、ほぼ例外なく、そのことで自分自身を責めています。学校に行かないのは悪いことだ、部屋にひきこもっているのはよくないことだ。それは自分でも重々わかっている。でも、体は動かない。その葛藤の狭間で、ほとんどの若者が悩み、苦しんでいるのです。
 隆英君も、家の中にひとりいて、苛立ちが募るばかりだったのでしょう。でも、その苛立ちを解消する術も、現状を打開する力も、相談する相手もいない。それをぶつける唯一の相手は、狭い家の中にいては母親しかいなかったのです。
 それから、夜中にマンションの部屋の壁をがんがん殴って穴をあける、やめさせようと話しかける母親を殴り倒し、時には包丁で脅す、といった暴力が始まりました。P34


 善良な家庭で、勉強も良くできた子供が、引きこもったり、暴力をふるうようになる。
親の子殺しのほうが遙かに多いが、親への暴力は、親による虐待とは少し事情が違う。
筆者は問題児が普通の子供であることを、何度も何度も強調している。
そして、両親のほうも、普通以上であるという。

 両親ともに仲がよく、子供の教育には熱心で、経済的にも豊かといった、「普通」か「普通」以上の家庭で、家庭内暴力が頻繁に起こつているのです。私のところに相談にみられる方も、両親ともに仲がよく教育熱心で、収入も決して低くはない、という親御さんがほとんどです。P76

 そうだろうと思う。
いまでは、明日の食べ物にも事欠くような、極貧という家庭は少ない。
極貧になる前に、生活保護がでたりして、何とか生活ができる。
そして、極貧家庭ではむしろ子供の虐待が問題になる。
普通の、また普通以上の家庭で、子供の生きる力が暴力となって出現しているのだ。

 筆者は親とは、子供に生き方を示すのだが、それは上から子供に強制するのだ、という。
3歳までは王様のように育ててるのだが、その後15歳くらいまでは、躾という強制があるという。
この強制に子供は反発し、反抗期をへて、1人前の大人になっていく。
引きこもったり、暴力をふるう子供は、反抗期がないという。
親の言うことを良く聞く子だった。

 筆者は、暴力をふるう子供の親に着目する。
すると、親たちは<友達親子>を、実践していることが多いという。
上からものを言わずに、子供と同じ目線に立って、一緒に考え対等に付き合おうとする親たちだ。
友達親子を実践しながら、親たちは親の希望に従うように、見えない糸で子供をコントロールしている。
 
 かつての頑固オヤジとは違って、今の親は子供の希望を尊重している。
しかし、子供の希望を尊重するように見えながら、じつは親の希望に従うように、無形の糸で子供を操縦しているのだ。
自主性を尊重すると言いながら、良い成績を取るように仕向ける。
偏差値の高い学校を望むように、無形のレールを敷いている。

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 親は強制していないと良いながら、子供は親の望むように歩かされている。
親は子供と対立しないから、親には子供を強制している自覚はない。
社会的にも肯定的な方向だから、親の差し示している方向は、誰にも批判されることはない。
頑固オヤジなら、まわりも子供に同情する。
しかし、無形のコントロールは見えないから、理解ある親には羨望だけが送られる。

 子供にとって、親の存在は全世界に匹敵する。
しかも、子供は親に気に入られたい。
親の希望を敏感に感じ取り、親の希望に添うように、自分の希望を心の中に形作っていく。
子供の好きにして良いのだと言いながら、親の希望する道を選ばせている。

「××高校に合格すれば、嬉しいだろうな」
 (子供は)そう思うわけです。そしていつの間にか、親の望みどおりの「道」を選んでいる。
 結局、親の欲望に、子供が知らない間に付き合わされているのですが、これを親は、「自分の希望を頭ごなしに言わずに、子供が自主的に選んだ」という話にすりかえているのです。
 ここに、「友達親子」のごまかしがあります。
 子供たちをそれと気づかぬように、親の敷いたレールの上を歩かせながら、親はそれを「子供たちが自分で選んだ。自分たちは何も子供に押し付けてない」と思っている。子供に「道」を押し付けたという自覚が、まるでないのです。
 子供が順調にレールを歩んでいるうちは、それでも問題にはなりません。受験もうまくいって、クラスで落ちこぼれることなく、人間関係もうまくいっている間は、それでもいい。そんな家庭では、「友達親子」であっても、暴力が生まれることはないでしょう。
 しかし、何かのきっかけでつまずいた時、子供たちは必ずその「犯人探し」を始めます。P161


 小学校くらいの子供は、親の希望を満たそうとする。
この時代には、親の希望が、本人の希望である。
にもかかわらず、母親たちは子供に密着し、親の願望をそれとなく知らせる。

 筆者は母親の願望を、<母親のまなざし>と呼ぶ。
こんな学校が好きといって、母親は自分の願望をせつない眼差しで、伝えているという。
しかも、筆者は母親のまなざしを、心の暴力とすら呼んでいる。

  子供の親への暴力は、いかにも情報社会の病理であろう。
目に見える強制力ではなく、心を支配するのが情報社会である。
感情をこめることが職業上でも要求されるように、強制とは感じさせずに、みずから自発的に動くようにするのが、情報社会の教育なのだ。

 真綿で首を絞められるような、良い家庭での物わかりの良い親たちによる教育。
その偽善性に気づいたとき、子供たちは自分の自主性を返せと、親を激しく突き上げていく。
それが親への暴力だ。
こうした筆者の発言には、全面的に賛成する。
子供に問題があるのではない。
偏差値で輪切りにされる社会を、そのまま自分の価値観として、子供を上昇指向にのせる親たちに問題はあるのだ。
 
 文部科学省系の統計数理研究所の2008年の国民性調査によると、「自分の好きなことをしたい」よりも「人のためになることをしたい」を選ぶ割合は、20代で43%、30代で52%と急増しています。若者たちの人間としての品性は、その「物欲の低さ」「競争心の稀薄さ」「心の優しさ」等の点で、私たちの世代よりも高いようです。私たち親の世代の「経済戦士として勝ち組になれ」という時代錯誤の価値観の無意識な押しつけが、若者たちの本来の高い品性を大きく歪めてしまったのではないか、それが急増する家庭内暴力の根本原因だったと、再認識させられている次第です。P336

 金儲けに全身を捧げてしまった結果、人間の品性を失ってしまった日本人。
出世し、金持ちになった人たちの品のなさ。
大学の先生が、インテリの顔をしていない。
日本人の顔は醜い。
そんな感じがする。
若者たちが新たな時代を作ろうとしている。
その産みの苦しみが、家庭内暴力だろう。
とすれば、暴力が親に向かうのは必然である。

 引きこもりは我が国に特有の現象だという。
親たちは建前としての核家族にしがみつき、男女の愛情を子供に見せてこなかった。
引きこもりや家庭内暴力は、専業主婦の跋扈を許し、新たな家族像を模索してこなかったツケであろう。
家族のあり方が、ここまで病的になっている以上、もはや核家族は機能不全と言っていい。

 本書は家庭内暴力の本質に迫ろうとしている。
しかも、暴力を社会の問題だと言って済ませていない。
現実に当惑している当事者たちに、救いの手を差しのべている。
家族論を語る上では、必読であろう。    (2010.3.10) 
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参考:
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菊地正憲「なぜ、結婚できないのか」すばる舎、2005
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宮迫千鶴「サボテン家族論」河出書房新社、1989
牟田和恵「戦略としての家族」新曜社、1996
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997

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