著者の略歴−昭和12〈1937〉年、東京生れ。学習院大学文学部哲学科卒業後、38〜43年までイタリアに遊学。45年、再度イタリアに渡り、現在に至る。ローマ在住。45年、「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」で毎日出版文化賞、56年、「海の都の物語」でサントリー学芸賞、57年、これまでの著作活動に対し菊池寛賞受賞。63年、「わが友マキアヴェッリ」で女流文学賞受賞。他に「ルネサンスの女たち」「神の代理人」「サイレント・マイノリティ」「コンスタンティノープルの陥落」「ロードス島攻防記」「レパントの海戦」「マキアヴェッリ語録」「イタリアだより」「男たちへ」「再び男たちへ」「法王庁殺人事件」等がある。 同じ筆者の「ローマ人の物語」も愛読している。 現在73歳の女性が、46〜51歳の時にかけて書いたエッセイである。 本サイトは男女平等を是としている。 男性も女性も、同じように職業をもつべきだと考えている。 しかし、身体的に男女に違いがあることも、認めざるを得ない事実である。
最近のアメリカ映画を見ていると、ユニセックスになってしまい、男女の違いは極小化している。 女性たちも男性と同様に、職場で働いているし、男性も子育てに余念がない。 男女は等価だとは思うが、ボクのような老人は、男が男であり女が女だった時代に、いくらかの郷愁を感じるのも正直なところである。 男女平等になると、社会的には人間としての理想像さえあればいい。 しかし、個人的には、男にとっては女の理想が、女にとっては男の理想があるようにも思う。 社会的な存在としての、男女は同じで良いが、個人的には男女はおおいに男女であって欲しい。 1950年代のファッションを見ていると、男も女も実にセクシーでカッコイイのだ。 現代は、男女の性的な魅力を語らなくなってしまった。 やはり昔の世代の声、しかも女性の声を聞くのが良いように感じて、この本を本棚から取りだしてみた。 筆者の男性観に共感するボクは、やはり古い世代に属するのだろうとは思うが、それでも納得する台詞があって面白かった。 日本の大学の先生は、どうしてインテリ顔ではないのだろうと思っていたら、筆者は<インテリ男はなぜセクシーでないか>と論じていた。 大学教授とかジャーナリストとか、頭を使う職業の男たちが、何故に魅力がないのか、と筆者は問う。 その答えを、この男たちは、何を考えているのか、「女」には判らないと言う。
それは、この種の男たちは、いかに書きまくろうがしゃべりまくろうが、自分自身の考えていることを述べるよりも、「解説」することのほうに熱心だからであろう。この種の男たちの1人の口ぐせは、学問的に言えば、という一句だった。それでいて、言うこととなると、非学問的なことを一見学問的に整理して述べるだけなのである。(中略) 解説屋の隆盛こそ、昨今の日本の非知的現象の最たるものである、とさえ思っているくらいだ。解説屋の仕事は、そのどこを斬っても、赤い血は出ない。彼ら自身の肉体も、どこを斬っても赤い血は出ないのではないかとさえ思わせる。P215 日本の大学教授たちが、インテリ顔ではないのは、外国の知識で解説しているだけだからだろう。 現実と直面し、事実の中から自分の頭で、規則性を導いてくるという作業をやらずに済んでいる。 先進国には先例があるから、それを翻訳すればいいことなのだ。 しかし、翻訳はあくまで翻訳であり、オリジナルを考え出す作業ではない。 マスコミなどを見ていれば、なお専門家という解説者を有り難がっている。 だから、我が国の学者が外国に出ると、ほとんど相手にならないのだ、と筆者も言っている。 我が国のジャーナリストだって、外国では通じないだろう。 最近、BBCを見る機会があった。 BBCはもう古色蒼然たるマスコミだろうが、それでもカレン解放戦線のまっただ中に、記者が入ってレポートしていた。 カレン解放戦線側から報道すれば、ミャンマー政府との関係が悪くなるだろうに、BBCは記者を送り込んで報道する。 ここには赤い血がでることの覚悟がある。 ヤンゴンで日本人記者が死んだが、我が国のマスコミは、とても血を流しているとは思えない。 ところで個人的な話として、耳が痛い箇所があった。 食事の仕方くらい、その人の子供の頃の家庭を想像させるものはない。なぜならば、あれだけは、歯並びの矯正以上に矯正のむずかしいことだからである。子供の頃の習慣が、どうしても出てしまう。大人になって、上品に振舞おうといくら努めても無駄なのだ。とくに、マナーどおりにしようとするから、もっといけない。自信のなさが、あらゆる手の動き口の動きにあらわれてしまう。そして、自然にあらわれるからこそすばらしい自信は、どうしたって子供の頃からつちかわれたものでなくてはホンモノでない。 フォークの選び方がまちがったって、どうってことはないのである。給仕に、まちがったからもう1本もってきてくれ、と頼めばすむのである。(中略)マナーとは、経験、これにつきる。そして、この種の真のマナーは、子供の頃に、母親がしつけるしかない。P233 アラン・ドロンは終生、育ちの悪さから抜け出せなかったという。 お里が知れるという言葉がある。 子供への対応は、無意識のうちに子供に染みこんでいく。 筆者がこれを書いた時代より、はるかに裕福になった我が国だが、真のマナーが身に付いただろうか。 (2010.3.12)
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