編著者の略歴− 1968年東京都生まれ、1990年法政大学経営学部卒業、1998年「性同一性障害」であるとの診断を受ける。2003年4月「性同一性障害」であることを公表の上,世田谷区議会議員選挙に立候補し当選,同年5月より世田谷区議会議員。 2000年1月から「性同一性障害」を抱える人向けの勉強会や交流会,一般向けのシンポジウム開催など,「性同一性障害」をもつ人々の自助・支援活動に携わる。現在では,性の問題に限らず,多様な社会的少数者の環境改善に関心を寄せている。共著に『多様な「性」がわかる本』(高文研)がある。 http://ah-yeah.com/index.html いかにも岩波新書っぽい啓蒙的な文章である。 自分を性同一性障害という病気だと名のり、病気の私からという副題もすごい。 筆者の肉体は男性だが、心は女性だった。 そして、肉体は女性だが、心は男性という性同一性障害者と同棲している。 現在は、世田谷区会議員である。 性同一性障害というより、世田谷区議会議員のうほうが、あれっていう感じである。 性同一性障害は個人的な問題だけど、議員となれば政治そのものであり、普通の人は議員になろうとはしない。 性同一性障害と議員とを、分けて考えたほうが良いように感じる。
多くの人は議員になろうとは思わないように、多くの性同一性障害者も、議員になろうとは思わないだろう。 少なくとも、筆者は区議会議員という仕事で、何かをなそうとしたわけだ。 それが何なのか、どうも良く伝わってこない。 性同一性障害者という少数者だから、ものが良く見えるというわけでもないだろう。 議員は少数者の利益代表ではなく、世田谷区民の代表であるはずだ。 とすれば、少数者であることを主張し、それを支持基盤とすることは論理的には疑問がある。 女性の立場でとか、主婦の立場で、といった発言と同じように感じる。 区議会議員になろうとする資質自体が、たぶん筆者の政治性を物語るのだろう。 つまり、性同一性障害でなくとも、政治家になりたかったに違いない。 議員に立候補するには、ウリがあったほうが有利だろう。 首長と違って、区議会議員のように大勢が当選する場合、何か特別のウリがあることは特に有利だろう。 女性の姿をしているけど、戸籍上男というのは、一種の看板になる。 72人中6位での当選ということからも、女男であることが有利に働いたと思う。 そのくらいには性同一性障害が、マイナス・イメージではないということだ。 2003年4月の選挙で当選し、2004年12月に性転換手術をうけている。
議員になって1年半で、公務とか公人といった意識になる。 誰でも仕事をしていれば、休暇を取るのも大変だが、公人というのは特別に大変なのだろうか。 ドイツで男性として当選した町長が、在任中に女性へと性転換したら、リコール運動が起きてしまった。 男性の市長を選んだつもりで、女性の市長を選んだつもりはないということだろう。 市長は仕事をきちんとしているのだから、性別は関係ないだろうという立場だったが、違和感を感じた選挙民もいた。 筆者の場合は、女性として立候補しているので、性転換手術は問題にならないだろう。 性同一性障害をウリにして立候補するのには、いささか抵抗があるが、それでもさまざまな人が議員になるのは良いことだ。 筆者もいうように、沈黙していては何もないに等しい。 自分の意見を言うことは、きわめて重要なのだ。 自己肯定感の高まりに伴って、強い「権利意識」も生まれている。 「就職面接で「性同一性障害」であることを伝えたら不採用になった。これは差別ではないか!?」 「性同一性障害」を公表して議員をしている私のところには、全国からこういった不満の声が寄せられる。しかし、一地方議員の私にまでこうした電話をしてくる人の話を開いて感じるのは、いかに仕事ができるか、周囲と協調していけるかといった、仕事上でのセールスポイントを訴えるのではなく、まず何をおいても「「性同一性障害」であること」を訴えることからはじめているケースが多いということだ。求人を出している会社は、仕事に役立つ人材を求めているのだ。彼らが聞きたいのは、その点でのセールスポイントであって、「性同一性障害者」の話は、その次にくるべきものではないか? P192 と、筆者はいっている。 筆者自身が、性同一性障害者だと名のって立候補したことは、電話の主とどう違うのだろうか。 差別糾弾の運動は、かならずこうした弊害をうみだす。 女性運動も女権拡張運動までは、女性差別も法的な権利問題や、制度の改善が目的だったから判りやすかった。 しかし、我が国のフェミニズムは、女性一般が差別されているという論理をとってしまった。 そのため、女性だから差別されているという話になりがちであった。 女性であっても、男性であっても、職場はその人の能力を求めているのだ。 仕事さえできれば、男性でも女性でもかまわない。 仕事をする上で、屈強な腕力が必要になれば、女性は男性に敵うわけがない。 だから、農業や工業の時代には、女性が劣位に置かれた。 情報社会の今、屈強な腕力は不要である。 だから男女が同じ立場で、職業に取り組むことができる。 女性の能力を発揮させるために、女性差別をなくなさなければならない。 子育てを女性任せにすれば、子持ちの女性は働けるわけがない。 (2010.10.27)
参考: 岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、 1972 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノローグ」白水社、2002 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国」岩波書店、1989 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 能町みね子「オカマだけどOLやってます」文春文庫、2009 レオノア・ティーフアー「セックスは自然な行為か?」新水社、1988 井上章一「パンツが見える」朝日新聞社、2005 吉永みち子「性同一性障害」集英社新書、2000 三橋順子「女装と日本人」講談社現代新書、2008 宮崎留美子「私はトランスジェンダー」株)ねおらいふ、2000 虎井まさ衛「ある性転換者の記録」青弓社、1997 杉山文野「ダブルハピネス」講談社、2006 上川あや「変えてゆく勇気」岩波新書、2007
|