編著者の略歴−1950年埼玉県川口市生まれ。東京外国語大学インドネシア語学科卒。競馬専門紙「勝馬」記者、夕刊紙「日刊ゲンダイ」記者を経て『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『繋がれた夢』(講談社)『シンザン物語』(大和書房)『子供を蝕む家族病』(小学館)『斗酒空拳』(世界文化社)他多数。 我が国で初めて、法的な手続きを経て行われた性転換手術を契機として、性同一性障害を考えたもので、ルポライターが書いているので読みやすい。 ブルーボーイ事件以来、我が国では性転換手術が行われてこなかった。 そのため、カルーセル麻紀が海外で手術を受けたりしていた。 性同一性障害とは、男性の身体でありながら女性の心性、または女性でありながら男性の心性をもつことだという。 身体的な性別は、胎児の段階できまる。 筆者によれば、身体的な性別と同時に、脳も性別が決定されるのだそうである。 脳が身体と反対の性別にセットされて生まれてくる。 それが性同一性障害者ということになる。
いくら脳と身体の性別が違っても、医学が未発達な時代なら、身体を改造することはできなかった。 宦官やカストラートなどを見ればわかるように、睾丸やペニスをとることは可能だった。 しかし、それも危険なことであり、ましてや膣をつくったり、ペニスを造ることはできなかった。 だから、脳を身体に合わせなければならなかった。 性同一性障害者が異口同音にいっていることは、身体的な性別に対する違和感だ。 女性の場合は乳房が大きくなり、女性化していく身体に嫌悪感を感じたりする。 男性の場合は髭が濃くなったり、喉仏が出てきたりすることに違和感があるという。 ほんとうに性別意識というのは不思議だ。 本サイトは、性別意識は社会的に形成されると考えている。 だから、フェミニズムの成立する余地があると思う。 もし胎児の段階で、性別意識が生物的な次元で決まるとしたら、社会性と身体性を区別することが難しくなる。 身体性と社会性が直結しておらず、両者は切断可能だから、男女ともに同じ仕事ができると考えている。 男女が身体のみならず、意識も性別的なレベルで決定されたら、男女が同じ仕事をすることは人体に無理をさせることになる。 男性は男性向き、女性は女性向きの仕事をしたほうが、自然であり落ち着きが良いだろう。 だから、性別意識が生得か獲得形質かというのは、きわめて大きな分かれ道なのだ。
しかし、現代ではウツ病といった、精神的な疾患が労災となる。 性自認が身体的な性別と違うのは、一種の精神的なトラブルだと考えることもできる。 身体に脳が合わないのだから、脳を治すことも考慮の対象になるはずである。 肉体労働が主流の時代にも、性同一性障害はあったろう。 当時は、ナヨナヨした男だとか、男勝りの女といった風に見られたのだろう。 しかし今では、違和感を脳で解消せずに、身体への外科的な手術で解消しようとする。 ナヨナヨした男や、男勝りの女ではいけないのだろうか。 ナヨナヨした男を認めろという主張からは、男女の境をなくす方向が指向される。 男女の境をなくせば、性別による違和感が生じる余地がなくなる。 女性的な男性や、男性的な女性の存在を許す社会のほうが、ゆったりしていて楽なように思うのだが、当事者にすればそうはいかないのだろう。 無邪気だった子どもの頃は、ウルトラマンが大好きでスカートが大嫌いで、男の子たちとサッカーをして元気に遊んでいた男まさりの少女だった。少なくとも、周囲はそう受け止めていた。女らしい男の子は、それだけで変な子だと早くからいじめの対象になるが、男らしい女の子は、髪が短くても、スカートをはかなくても、そんなに周囲の反応は敏感ではない。男の子みたいな女の子」は、「女の子みたいな男の子」より、世間に受け入れられやすいのかもしれない。 性同一性障害の人の数は、男から女を望む人が、女から男を望む人の三倍と言われている。男から女を望んでいる人はほぼ三万人にひとり、女から男を望む人は十万人にひとりというのが米国などで発表されている数字である。しかし、最近、北欧などでは、一対一で、どちらも同じ割合であらわれるという統計も出されている。P147 男性は男性らしく、女性は女性らしくあれ、という規範が、社会に強くあるのだろう。 しかし、この規範を最も早く、しかも最も強く押しつけるのは親なのだ。 親は子供が幸せになることを願って、男性は男性らしく、女性は女性らしくあれという。 家庭内暴力でも、親が子供の幸せを願って、厳しくしつけるのだ。 しかし、親の価値観は、親が育ってきた時代のものであり、それが子供を幸せにするとは限らない。 出世した親ほど、価値観を押しつけたがる。 頑なな親こそ、社会の規範を押しつける元凶である。 肉体優位の時代には、肉体の障害が問題視されたが、精神の障害は問題視されることもなかった。 性同一性障害は明らかに情報社会の問題だと思う。 存在するだけで、人間をそのまま認めてくれる社会が良いと思う。 しかし、そうした社会では、また違う問題が生じるのだろう。 人間社会でも、第二次世界大戦下のロンドンやベルリンで生まれた子どもの中に、ホモセクシャルの子が多くみられたということが報告されている。ロンドン、ベルリンは非常に激しい空爆にさらされ、その強いストレスの中で妊娠、出産を迎えた妊婦のホルモン変調が、胎児に影響を与えたものではないかと考えられている。 このように、生物学的な性の決定も、さまざまな不確定な要因にさらされて、ちょっとしたズレや不足、遅れで肉体と精神が一致しない場合が生じる。P34 という文章は、性自認と性指向を混同しており、疑問である。 また、橋本秀雄「男でも女でもない性」を引用して、半陰陽を論じているが、性同一性障害と半陰陽は違う問題である。 大雑把にいえば、性同一性障害は精神の問題であり、半陰陽は肉体の問題である。 性的少数者として両者を同じように括って良いのだろうか。 (2010.10.23)
参考: 岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、 1972 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992 梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001 山村不二夫「性技 実践講座」河出文庫、1999 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002 プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノローグ」白水社、2002 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国」岩波書店、1989 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 能町みね子「オカマだけどOLやってます」文春文庫、2009 レオノア・ティーフアー「セックスは自然な行為か?」新水社、1988 井上章一「パンツが見える」朝日新聞社、2005 吉永みち子「性同一性障害」集英社新書、2000
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