編著者の略歴−1955年京都生まれ。京都大学工学部建築学科卒業,同大学院修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手を経て,1987年より国際日本文化研究センター助教授。専攻は風俗史,意匠論。1986年『つくられた桂離宮神話』(弘文堂)でサントリー学芸賞、1998年『南蛮幻想』(文芸春秋〉で芸術選奨文部大臣賞受賞。〔著書〕『霊柩車の誕生』『戦時下日本の建築家』(以上,朝日選書),『美人論』(朝日文庫)『法隆寺への精神史』(弘文堂),『狂気と王権』〈紀伊園屋書店〉,『愛の空間』(角川選書)など かつて女性も立って小便をした、と本サイトは何度も書いてきた。 男性は屋外・屋内をとわずに、立ち小便をしたが、女性は屋外でのみ立ち小便をした。 女性にしゃがんで小便をするように仕向けたのは、いったい何だったのか。 それは、女性の地位を向上させたのか低下させたのか、判断に迷うところである。 本書は女性がパンツをはくようになったから、パンツが見えることに対して、羞恥心が生まれたと言っている。 そのとおりだろう。 だいたい陰部が見えることを、かつての女性はそれほど恥ずかしがってはいない。 だから時代が下って、スカートの中を見られても、恥ずかしさが沸かなかったのだ。 しかし、現代ではちょっと様子が変わってきた。
女性がパンツをはくようになったのは、白木屋の火災からだという俗説を批判し、それは間違いだと論証する。 たしかに、1932年(昭和7年)頃の女性は、和服姿が多く、職場でも和服だった。 下着といえば腰巻きだけで、パンツのように局部をじかに覆うものは、身につけていなかった。 そのため、下からは丸見えになってしまった。 火事にあって避難するにも、衣服が風であおられて、下の野次馬から局部が見えてしまう。 そのため、恥ずかしさが邪魔して、避難ロープから手を放して、墜落死したというのが俗説である。 筆者はこの俗説を丁寧に反証していく。 そして、なぜ俗説が生まれたのかまで、突き止めていく。 具体的な論証は、本書を読んでもらうとして、筆者は面白いことを言っている。 ふだんからパンツをはいている女と、はかない女。その両者が陰部を目撃された時にいだく羞恥心は、どちらが強いのか。こたえはあきらかである。パンツをはいている女のほうが、はずかしがるにきまっている。 陰部をのぞかれた時にいだくたえがたい羞恥心。これは、パンツをはく習慣が女たちにうえつけた心性である。パンツによって、洗脳されていった気持ちのありようなのだ。 彼女たちは、陰部の露出がはずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部をかくすパンツが、それまでにはないはずかしさを、学習させたのである。P78
羞恥心とは隠されたものを見られたときにおきる。 最初から隠していなければ、恥ずかしいという気持ちは沸きようがない。 セックスに関しても、開放的になったといわれるが、かつてのほうが開放的だった。 まわりには大型動物がいて、サカリがつけば衆目の前で、セックスをしていた。 また、性に関すること自体が、隠されることではなかった。 だから、セックスへの羞恥心も今ほどではなかった。 核家族の誕生が、セックスを隠したのだ。 隠すから羞恥心が生まれ、羞恥心が生じたから、ますます隠すようになった。 これは人間心理の真相をついている。 問題は、なぜ、誰が、何の目的で隠すようになったかだ。 筆者は、そこまで論じてはいないが、羞恥心のあり方に、パンツをネタにして分析を続けている。 パンツをはかないと活発な行動ができない、というのは嘘だ。 かつての女性は、着物姿で野良仕事をした。 また、男性には褌こそあったが、ズボンではなく股引きしかなかった。 股引きは左右が重なっているだけだから、大股開きをすれば、下からは男性のシンボルも見えていた。 本書は男性には触れていないが、六尺褌ははなはだ心許ないもので、横から見えてしまうのだ。 つまり男女ともに、陰部を隠すという意識が薄かったのだ。 現代の女性たちは、パンツを何枚ももって、毎日はき替えているだろう。 だから、汚れたパンツを、はいていることはないに違いない。 しかし、1960年(昭和35年)以前頃は、まだ汚れたパンツをはいている女性もいた。 経血の処理が上手くできるようになったのは、そんなに昔のことではない。 そうした事情を、本書はこと細かく調べ上げている。 パンツは男性の劣情を刺激する小道具として、まずプロの女性たちに普及したという。 けっして労働のための下着として、普及したのではない。 男に媚びをふりまき、公然と誘惑する。そのことが、以前はみとめられていなかった。社会が、そんなふるまいを禁圧していた時代も、あったのである。 男への挑発的な媚態が公認されている場所は、遊廓や花柳界にかぎられていた。男権的な社会は、それを色街という閉ざされた空間に、封じこめていたのである。女の性的な誘惑が社会へ蔓延するのをおそれ、閉域に隔離していたと言うしかない。 近代化は、しかしこの空間をかこむ壁に、穴をあけていく。男を誘惑し挑発する。そんなふるまいを、色街の外側にも、解放していった。娼婦のような女が浮上することを、市民社会においても促進させたのである。P289 陰部を隠すようになったのは、女性のセックスを家庭へと閉じこめるためだったのではないか。 女性が男性と同様の働き手だった時代には、セックスを管理しなくても良かった。 だから、女性たちも陰部をさらしても、それほどの羞恥心が沸かなかったのだ。 最近、女性が男性並みに働けるようになると、パンチラには恥ずかしさを感じなくなったようだ。 そして、中国女性はまだパンツが見えても、恥ずかしがらないという。 それは近代化が途上についたばかりだからだろう。 (2010.10.19)
参考: 岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、 1972 S・メルシオール=ボネ、A・トックヴィル「不倫の歴史 夢の幻想と現実の ゆくえ」原書房、2001 フラン・P・ホスケン「女子割礼:因習に呪縛される女性の性と人権」明石書店、1993 エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国 T・U 古代ギリシャの性の政治学」岩波書店、1989 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」 飛鳥新社、1992 謝国権「性生活の 知恵」池田書店、1960 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 赤松啓介「夜這 いの民俗学」明石書店、1984 福田和彦「閨の睦言」 現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」 河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系 譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「イ ンターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメ リカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーの カーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原 書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世 社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」 筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないは ワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」 KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」 河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」 光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」 原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、 2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」 KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 山村不二夫「性技−実践講座」河 出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」 文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性か らの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系 譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中 世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・ イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」 幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」 新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品 社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋 社、1984 石川武志「ヒジュラ」青弓社、 1995 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 岩永文夫「フーゾク進化論」平 凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」 草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」 作品社、2009 イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノロー グ」白水社、2002 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 能町みね子「オカマだけどOLやってます」 文春文庫、2009 島田佳奈「人のオトコを奪る方法」大和文庫、2007 工藤美代子「快楽(けらく)」 中公文庫、2006 ジャン=ルイ・フランドラン「性と歴史」新評論、1987 レオノア・ティーフアー「セックスは自然な行為か?」新水社、1988 井上章一「パンツが見える」朝日新聞社、2005
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